礼拝説教の要旨・2025年5月11日・ヨハネ21:15―25
“他のだれよりも主イエスを愛しますか”
20章で弟子達はイエス様から派遣を聞き、聖霊が与えられ、罪の赦しを宣べ伝えるよう言われた。これで弟子達はすぐに宣教に出かけると思いきや、21章で彼らは故郷のガリラヤに戻り、漁師を始めた。宣教を始める前に彼らは整えられる必要があった。整えるべきことは主を愛することだ。主は弟子達を最後まで愛し、互いに愛し合うことを教え、それがキリストの弟子である証明になると教えた。愛の共同体である。21章の朝食はその例である。
弟子達が主を愛することも必要だ。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません」そこまでして「わたしを愛しなさい」と教えた。それはイエス様とペテロの会話に現われる。ペテロは主が愛された弟子が「主だ」と言うと、上着をまとい、湖に飛び込んだほど主を愛していた。でも、朝食後、主はさらに「あなたは、この人達が愛する以上に、わたしを愛しますか」と他の弟子達と競わせ、ペテロが「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存知です」と答えて彼の愛を確認できると「わたしの子羊を飼いなさい」と命じた。同じ質問を3回したが、3回主を否定したことに対応する。
原典のギリシャ語では主の1、2回目の「愛していますか」は「アガパオー」、ペテロの「あなたを愛している」は「フィレオ―」だ。アガパオ―は無償の愛、フィレオ―は友を愛する愛を表す。ペテロはフィレオ―を使い慣れていたようだが、3回目で主はペテロに合わせて「フィレオ―」で問いかけ、ペテロは「フィレオ―」で答えた。無償の愛をペテロに合わせて友愛に格下げしたのか?そうではない。主は友(フィロス)を用いてでも最高の愛を教えた。15章「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません」主は“わたしは友であるあなたのために十字架にかかり、いのちを捨てた。今度はあなたの番だ。あなたは友であるわたしのためにいのちを捨てることができるか”と問いかけ、ペテロは「愛しています」と答えた。
「年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます」伝説によると、ペテロは逆さ十字架で殉教したが、この福音書の著者ヨハネは長生きでペテロの殉教を知っていたから「イエスは、ペテロがどのような死に方で神の栄光を現すかを示すために、こう言われた」と解説した。これは殉教の予告だ。ペテロは自分だけでは心細くて、主の愛された弟子を指さして「主よ、この人はどうなのですか」と尋ねた。彼は私達と全く同じで常に自分と他の人達を比較しながら生きていた。でも、比較では主を愛する生き方は出来ない。だから「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい」と他の人のことは気にしないで自分に示された神の道をひたすら歩めと勧めた。これは今の私達にとっても大事なことだ。だが、このことばを誤解して「その弟子は死なない」という話が広がった。だから著者のヨハネは、同じことを繰り返し書いた。私達も主を愛するためには
主のみことばをよく聞く必要がある。そうして神のみこころを成し遂げることができる。
