礼拝説教の要旨・2025年5月18日・黙示録2:12—17
“口の剣でサタンと戦うキリスト”
ペルガモンには偶像の宮がありローマの初代皇帝アウグストゥスのための神殿があり皇帝礼拝が盛んだった。だからキリスト者は試練に遭遇した。主はそんな彼らにみことばを伝えた。「ペルガモンにある教会の御使いに書き送れ、鋭い両刃の剣を持つ方がこう言われる」
「両刃の剣を持つ方」はキリスト、「口の剣」はみことば、キリストはみことばで戦われる。
「わたしは、あなたが住んでいるところを知っている。そこにはサタンの王座がある」
サタンがその地域や社会を支配していた。「しかし、あなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの確かな証人アンティパスが、サタンが住むあなたがたのところで殺された」殉教者が出たようだが、彼らは信仰を守り通した。主は彼らの信仰と勇気を誉めている。
だが、主は誉めるだけでなく責めている。ペルガモンの教会には少数だが異端的な教えを持つ人達がいたからだ。「あなたのところに、バラムの教えを頑なに守る者達がいる。バラムはバラクに教えて、偶像に献げたいけにえをイスラエルの子らが食べ、淫らなことを行うように、彼らの前につまずきを置かせた」バラムや偶像に献げたいけにえは民数記の時代であるが、同じタイプのことが黙示録の時代のペルガモンで起こっていた。バラムの教えとは異端的な教え、「偶像に献げたいけにえをイスラエルの子が食べ」とはキリスト者が異端的な教えの影響を受けること。ニコライ派も異端的な人達。異端的な教えが教会内に広がる危険性があった。「だから悔い改めなさい」異端的な人達を放置してきたことを悔い改めること。
「そうしないなら」は「もし悔い改めないなら」である。2:5「そうせず、悔い改めないなら、わたしはあなたのところに行って、あなたの燭台をその場所から取り除く」と似ている。違いもある。エペソの教会には厳しいが、ペルガモンの教会には「わたしはすぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣を持って彼らと戦う」と優しい。どうしてか?迫害が関係する。また普通、教会に異端的な人達がいたら、教会はそういう人達を何とか説得するが、難しくてお手上げになることがほとんど。ここはそういう現実を前提にして読む必要がある。すなわち「わたしの口の剣をもって彼らと戦う」とは、彼らと関わってお手上げになっている私達に目には見えないが、主がやって来て彼らの誤りを示すこと。だからお手上げでも難しい人達を放置しないで説得する努力をせよと励ます。
「耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。勝利を得る者には、わたしが隠されているマナを与える。また白い石を与える。」この世的な「勝利」ではないが、口の剣で戦う主を信じて異端的な人達や難しい人達と関わり、悔い改めに導こうとする人は勝利を得る者だ。彼には「隠されているマナと白い石」が与えられる。マナとは、荒野でイスラエル人が食べたもの。イエス様はそのマナを用いて自分が永遠のいのちを与えるパンだと語った。だが、永遠のいのちが実現するのは世の終わりの復活の時。今はまだ隠されている。「隠されたマナ」は世の終わりに実現する永遠のいのちを表す。「白い石」当時の人達は周知のことだが今の私達には分からない。だが、祝福だから期待して試練に立ち向かおう。
