礼拝説教の要旨・2025年6月15日・使徒2:36-47
“世界初の教会は愛の共同体”
世界初のエルサレム教会はイエス様を十字架にかけた罪を悔い改めることから始まった。
「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めてイエスキリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」ペンテコステの日3000人がバプテスマを受けた。自分の罪を認めてその罪のためにイエス様が死んでよみがえられたことを信じてバプテスマを受けて罪が赦され、聖霊によって新しく生まれた人々が集まって教会ができた。新しく生まれたことがない人達の集まりは教会ではない。「この約束」は「あなたがた」だけでなく「その子供達に」そして「遠くにいるすべての人々に」教会には初めから世界宣教のビジョンが与えられていた。
「この曲がった時代から救われなさい」イエス様を信じて救われることはまず個人的な霊的救いを得ることだ。それは神とあなただけの関係だ。けれども、救いは個人的な霊的救いだけではない、曲がった時代から救われることでもある。それはこの時代の曲がった価値観にどっぷり浸かり支配されることを避けて、神のみこころを求めていくことだ。しかも、この世に留まりながら曲がった価値観に妨げられずに神のみこころを求めて行う。曲がった価値観とは基本的に“自分が得をすればいい、他の人達はどうなってもいい、私とは関係がないことだ”と自己中心的なものだ。だから曲がった時代からの救いとは、自分の益だけを求めることから離れて、神や隣人のために益となることを考え、出来るだけ行おうとすることだ。イエス様を信じて救われて終わりではなく、始まりだ。そこから1人1人が成長し、教会を建て上げることが始まる。そのためにエルサレム教会では使徒達の教えを守らせた。それは「交わりを持つこと」「パンを裂くこと(聖餐式)」「祈ること」である。
そして曲がった価値観に支配されないで神のみこころを実現するためにエルサレム教会では、持ち物を共有にしたり持ち物を売ってそれぞれの必要に応じて分配したりで経済的な弱者を助けるための働きをした。今と違って当時、国は福祉の働きをしなかったので教会は国の肩代わりをして経済的な弱者を助けた。それが当時の教会に示された神のみこころだった。使徒20章の「受けるよりも与えるほうが幸いである」はその働きを励ます主のみことばだ。「――民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて1つにしてくださった」人々は弱者を助けるキリスト者達の交わりに愛を見て、その愛が外の人々を教会へと導いた。ヨハネ13章「互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認める」けれども、その愛の行為に人々の注目だけを得ようとした偽りの献金や援助に頼って自分で働こうとしない人達も現れる弊害も出て来た。けれども問題はありながら弱者を助ける愛の行為は、曲がった価値観からの救いであり、神のみこころであり、宣教の力でもあった。今の私達は2000年前と比べるとはるかに豊かで便利な社会に暮らしているが、その価値観はひどい。持てる者達は持てない人達に冷淡だ。主を信じて個人的な霊的救いを得たことは大きな喜びだが、それだけでよしとしないで曲がった時代から救われるために何をすべきかを神が与えた宿題としていこう。
