礼拝説教の要旨・2025年6月22日・使徒4:1-22
“無学で普通の人でも語れるイエスキリスト”
3章「金銀は私にはない。しかし私にあるものをあげよう。――」で生まれつき歩けない人が癒され、歩き出したことがキッカケで人々が集まり、ペテロがみことばを語り、たくさんの人達が主を信じた。でも、祭司達、宮の守衛長、サドカイ人達が来て、ペテロやヨハネが死者の復活を語ったことに苛立ち、語ることを止めさせ、二人を捕まえ、一晩留置し、翌日議会で尋問を受けさせた。これは死者の復活を否定するサドカイ派が、イエスの復活や死者の復活を語れば人々は進んで耳を傾けてしまう状況に危機感をもって行ったことだ。彼らは偉い指導者達の前で尋問されたら二人は震え上がって黙るだろうと考えた。だが、その考えとは裏腹に議会での尋問は、二人に福音を語る機会を与えた。
二人は、エルサレムの人達が十字架にかけて死んだイエス様がよみがえったこと、神がよみがえらせたイエス様の名によってその癒しが起こったこと、「家を建てる者達に捨てられた石が要の石」はイエス様のこと、「この方以外には、だれによっても救いはありません」イエス様だけが唯一の救いの道であることを語った。二人がこれらのことを語ると、指導者達は二人の大胆さに驚き、二人が無学な普通の人であることを知ってさらに驚いた。彼らは何とか二人の口を封じようと今後、イエスの名によって語ってはならないと命じたが、二人は「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが、神の御前に正しいかどうか、判断してください」と尋問される立場なのに皮肉を言う余裕があった。それは救いに関して自分達に真理があるという確信が二人にあったからだ。さらに「私達は、自分達が見たことや聞いたことを話さないわけにはいきません」と彼らの脅しを跳ね除けた。
ペテロやヨハネが無学な普通の人であることを知って指導者達が驚いたことは神のご計画だ。「無学な」とあるが、二人は全く何も知らない無知な人達だったのではない。当時のユダヤ人は、子供の頃から会堂で旧約聖書を学んでいたから漁師でもかなりみことばを知っていた。だが、そういう人々を無学な普通の人と見下す人達が存在した。それがユダヤ教の教職者達だ。彼らは、自分達を神に選ばれて民衆の上に立って教え導く者と考え、民衆を無学な者達だと見下していた。だからこそ無知だと思い込んでいた民衆から、みことばを大胆に語る人達が現れて大いに驚いた。だが、それは見下されている人達を神は用いるという神のみこころの現われだ。「―――神は知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。」1コリント1:26―28
そのために神はペテロやヨハネやその他の弟子達は選ばれた。パウロは例外だが、神は当時の教職者から選ばないで漁師や取税人などから選んでいる。選ばれた弟子達は、福音書を見ると弱さを抱え、取るに足りない者だったが、そんな彼らだからこそ、神のみこころは成し遂げられた。長いキリスト教の歴史でも、取るに足りない人達が主に召されて大きな働きをしている。今の私達もこのみこころを成し遂げるために選ばれている。私達はたとえ取るに足りない者であっても、神の目にはそれは大きな可能性なのである。
