礼拝説教の要旨・2025年7月20日・黙示録3:14-22
“あなたの心の戸をたたく主キリスト”
ラオディキアは金融業、毛織物、目薬で有名で豊かな商業都市だった。豊かなラオディキアでは教会にもお金持ちがたくさんいた。「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っている」黙示録の7つの教会のうち5つには異端か迫害の試練があり、試練に耐えたことを誉め労うみことばがあるが、そういう試練がなかったラオディキアの教会には誉め労うことばの代わりに酷評がある。「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ――」主は信仰が「冷たいか熱いか」を望む。パウロはその典型だ。回心前のパウロはイエスキリストを知らないが故に教会を迫害したが、神を愛していた。しかし、ラオディキアの信者は神を知っていながら神を愛さないから主は「生ぬるい」と酷評。おそらく彼らの多くはビジネスに成功し、経済的に恵まれ、社会的な信用があるが、世的になり信仰的には堕落していた。だから主は「あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしは口からあなたを吐き出す」と手厳しい。
そこまで言わないと彼らは気付かないほど霊的に鈍かったから主はズバリ彼らが神の前には非常に貧しい状態にあることを語る。「あなたは――実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない」彼らは貧しい人達を見て“あの人達はみじめで哀れだ”と言うが、神の前には“あなたこそ貧しくて盲目で、裸の存在だ”と語るのだ。
そんな彼らが神の前に「豊かな者」となるために「火で精錬された金をわたしから買い、あなたの裸の恥をあらわにしないために着る白い衣を買い、目が見えるようになるために目に塗る目薬を買いなさい」と語る。みことばによって神の前には自分が罪ある者だと分かり、みことばによって罪からの救いを知ることができるから、みことばを求めることを勧めている。どうしてか?「わたしは愛する者をみな、叱ったり懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい」彼らを愛するから手厳しいことを言って悔い改めに導こうとする。
悔い改めとは何か?彼らはかつてキリストを信じたが、ビジネスで成功し、良い評判を得て、豊かになることで、この世のものが彼らの心を支配し、キリストは心の片隅に追いやられたから悔い改めとはキリストを再び心に迎え入れることだ。キリストはそれを切望している。
「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」それは彼がキリストと深い交わりを持ち、ともに歩めるようになるためだ。キリストはラオディキアの人達だけでなく私達の心の戸もたたいている。私達もキリストを心の片隅に追いやり他のものが私達の心を支配することがあるからだ。キリストを受け入れるために何もする必要はない。汚いままの部屋で大丈夫。必要なことはただ心の戸を開けるだけだ。キリストはまだ聖書も神もキリストもほとんど知らない人達の心の戸もたたいている。受け入れたらそこから聖書も神もキリストも分かるようになる。キリストを受け入れたら「勝利を得る者」となる。これはこの世の成功ではなく天国の祝福だ。かつて信じたとしてもキリストを心の片隅に追いやることは大いにあり得ることだ。だからキリストに心の戸を開こう。
