礼拝説教の要旨・2025年8月10日・ルカ8:26-39
“悪霊レギオンからの解放と、その感謝の証し”
イエス様は突如、馴染みのないガリラヤ湖東岸のゲラサ人の地に行った。歓迎してくれる人はだれもいないが、そこには神のご計画があった。1人の悪霊につかれた人を救うことだ。
彼は半狂乱で服を身につけず墓場に住んで長い年月が経っていた。鎖と足かせでつながれ、監視されていたが、それらを断ち切って悪霊によって荒野をさまよっていた。そんな彼が、イエス様を迎えた。主は悪霊に彼から出ていくよう命じた。彼のうちにいた悪霊は「いと高き神の子イエスよ、私とあなたに何の関係があるのですか。お願いです。私を苦しめないでください」と願った。主が「おまえの名は何か」と尋ねると「レギオン」と答えた。それは6000でローマ軍の1つの軍団を表す。悪霊どもは大勢だったが、イエス様の権威を恐れ、
「底知れぬ所に行け」とは命じないよう懇願した。近くに大量の豚が飼われていたが、悪霊どもはその豚たちに入ることを懇願して主がそれを許したので、悪霊どもは彼から出て豚たちに入った。豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、溺死した。一方、彼からは悪霊が去り、彼は正気に返った。
マタイやマルコの並行記事と比べると、マタイは大量の豚が溺死し、飼い主が逃げ出し、町の人々を連れて来てイエス様にその地方から出て行くようお願いしたことで終わるが、マコとルカでは悪霊から解放された人のその後のことが書いてある。またルカは「見ていた人達は、悪霊につかれていた人がどのように救われたか」と彼がイエス様によって悪霊から解放されて救われたことに焦点を当てている。彼は悪霊につかれて人生が狂い、長い間、非常に苦しんだ。彼の家族もである。でも、これから人生をやり直すことができる。幸いなことだ。ただし乗り越えるべき試練が待ち構えていた。
ゲラサの人々は彼の悪霊からの解放よりも大量の豚が失われて非常に大きな経済的損失が出たことを重く見ていた。彼に悪霊憑きのレッテルを張っていたから、良くなってもまたぶり返すだろうと思っていたかもしれない。彼らは異邦人だから真の神もメシアも知らないし、メシアであるイエス様も知らない。それは仕方のないことだが、人の魂や人生よりもお金を大事にし、レッテルを張って人を排除する彼らの狭い心はイエス様も排除した。そんな中で救われた彼がこれから暮らすことは容易なことではない。ゲラサは彼の故郷なのに居心地の悪い所だ。だから彼はイエス様のお供をすることでゲラサから離れることを考えた。だが、主にその話をすると「あなたの家に帰って、神があなたにしてくださったことをすべて、話して聞かせなさい」と言われた。彼は主に従い、家に帰り、試練を受け止め、神のみわざを町中で言い広めた。神のみわざとは“自分はイエス様に出会って悪霊から解放され、救われ、正気を取り戻し、これからはイエス様を信じて人生をやり直す”ことだ。なかなか理解されなくても彼は諦めないで語り続けた。彼のそのような姿は現代の私達を表す。ゲラサと同じように日本の社会ではイエス様や信仰に理解のある人はほとんどいない。現代社会はお金ばかりを大切にするし、イエス様を排除したがる心の狭さがある。でも、私達はそんな中で証し人として遣わされている。主は悪霊憑きさえ用いた。だから私達も用いられるはずだ。
