礼拝説教の要旨・2025年8月3日・ルカ8:22-25
“風と荒波を叱りつけるイエスキリスト”
イスラエルには2つの湖がある。南部の死海と、北部のガリラヤ湖だ。ガリラヤ湖は普段は静かだが、北の広大な高原地帯から吹き下ろす冷たい空気と、湖面から上がる暖かい空気がぶつかって激しい突風や嵐を引き起こすことが時々ある。イエス様と弟子達は舟に乗って向こう岸に渡り、異邦人の地にも福音を伝えようとしたとき、それが起こった。この記事はルカだけでなく、小さな違いはあるけれどもマタイやマルコにもある。初めは湖は静かだったが、激しい突風が吹いて大荒れになったが、イエス様はそれをたちどころに静かにした。この出来事から私達はイエス様が自然界をも支配する全能の神であることが分かる。それとともに私達はこの出来事を自分の人生に当てはめて考えることができる。この舟の旅は私達の人生を、また湖が荒れて舟が沈みそうになったことは私達の人生の試練を表す。
初め湖が静かで船旅は順調。それは私達が何の試練もなく順調に歩んでいることを表す。
そんな時、私達は案外、現実の厳しさや難しさを意識せず、何でも上手く行くと思い、自分の弱さ、罪深さに気づかず高慢になっている。眠っているイエス様をそのままにすることは疲れた主への思いやりに見えるが、霊的にはイエス様を心の片隅に追いやることを表す。
物事は順調でも彼らの信仰は危機的な状況にあった。でも、突風が来て湖が荒れて舟は水をかぶり出し、舟が沈んだら皆、溺れて死ぬという非常に危険な状態になった。それで弟子達は眠るイエス様を起こして助けを求めた。これは私達を成長させる人生の試練を表す。
眠っていてもイエス様が一緒にいたから起こして「先生、私達は死んでしまいます」と叫び、マタイ「主よ、助けてください」マルコ「私達が死んでもかまわないのですか」と訴えることができた。子供が親に信頼し切ってズケズケものを言うのと同じように弟子達はしたのである。一方、イエス様がいない人生にはズケズケ言える相手がいなくて一人で問題を抱え込み、自己責任の考えが強い人は「私が悪いのだ」と自分ばかりを責め、希望がなく人生に絶望する。だから何でも言える主とともに歩める人生は幸いだ。
次にイエス様は眠りから起き上がると風と荒波を叱りつけ、湖はピタッと静かになり、「あなたがたの信仰はどこにあるのですか」と問いかけ、弟子達は「お命じになると、風や水までが従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろうか」と驚嘆した。これは、私達が試練を通して、忘れがちなイエス様や神の偉大さに気づけるようになることを表す。だから試練をただ“大変だ”と言うよりも、それを通して貴重なことを学んで成長できたと思うべきだ。詩篇119:71「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした。それにより、私はあなたの掟を学びました」進んで試練に遭う必要はないが、避けられない試練が来てしばし苦しむことがあったとしても、それは神の教えを学び、神の偉大さや恵みを知る機会になる。
だから試練を通して知ることや教えられることは貴重だと考えてほしい。「今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価です(1ペテロ1:6-7)」
