礼拝説教の要旨・2025年10月26日・ルカ9:28-36
“山上で姿が変わったイエスは神の愛する子”
「これらのこと」は何か?イエス様が長老達、祭司長達、律法学者達に捨てられ殺されて
3日目によみがえること、自分の十字架を負って主に従うべきこと、主のためにいのちを失った者は自分のいのちを救うことや反対に自分のためにいのちを救おうとする者はかえってそれを失うこと。人はたとえ全世界を手に入れても自分自身を失ったら何の益があるかなどの教えである。これらを教えた1週間後、イエス様はペテロとヨハネとヤコブを連れて、祈るために山に登り、祈っているとその御顔の様子が変わり、その衣は白く光り輝いた。
主が栄光の姿に変り、幻のうちにモーセとエリヤが現れ、主がエルサレムで遂げようとしている最期について話していた。最期とは十字架である。ペテロと仲間達は眠くてたまらなかったが、目が覚めると主の栄光と、主と一緒に立っている2人の人を見た。この2人がイエス様と別れようとしたとき、ペテロが「ここにいることはすばらしい」と言い、2人を引き止めて幕屋を3つ造ることを提案。ペテロは、何を言うべきか分からず、弟子達は恐怖に打たれていた。この提案は神のみこころではなかった。
天の神から「これはわたしの選んだ子。彼の言うことを聞け」という声が聞こえた。マタイもマルコも「これはわたしの愛する子」なのに、なぜルカは「選んだ子」なのか?
イザヤ42章「見よ。わたしが支えるわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け」主はイザヤ42章が時至って成就したお方として世に来られた。主は神のしもべ、神の喜ぶ者、神の選んだ者だ。その証拠として主はバプテスマを通して聖霊を受けた。「彼の言うことを聞け」弟子達は旧約聖書を通してモーセやエリヤが民族の偉大な人物だとよく知っていた。主が偉大なモーセとエリヤとともにいることは、主も民族の偉人である証拠となり、弟子達はそんな主に従えば自分達の将来は前途洋々と考えていた。
でも、彼の言うことを聞くとはその時の弟子達にとって1週間前に主が教えたことに聞き従うことだ。受難の予告は受け入れがたく反発する者もいた。自分を捨て日々自分の十字架を負って主に従うことはその時、彼らは自分の出世のために従っていたから「自分を捨て」が出来ていなかった。自分のためにいのちを救う者はそれを失う。「いのち」とは肉体の命ではなくて自分の野望だ。弟子達はその頃、主に従うことで前途洋々な自分達を夢見ていた。野望は必ずしも悪いものではないが、1人よがりな野望は人だけでなく自分も損なうから彼らはいのちを失う者だった。そうならないように主は「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら」と警告した。以上、主の教えはその時の弟子達にとって受け入れにくいものだったから彼らは聞きたくなかった。そんな彼らを主は「わたしとわたしのことばを恥じるなら、人の子もその人を恥じる」と警告。この時の弟子達はそんな状態だったが、神はそんな彼らを見捨てず、彼らの成長を待ち望んだ。今の私達はその時の弟子達と同じ立場だ。私達も弟子達と同じような者だが、主は私達を見捨てず忍耐強く成長を待ち望んでおられる。だから私達も主から離れず、主のみことばを聞き続けよう。
