教会と言えば、すぐ思いつくのは十字架です。教会の屋根や壁によく十字架があります。しかし単なるシンボルですから神棚や仏壇みたいに手を合わせて拝むことはありません。聖画も拝みません。教会には手を合わせて拝むものは何もありません。どうしてか?
キリスト者は目に見えない神を崇めるからです。では、何が神を教えてくれるのか?物言わない十字架や聖画ではなく聖書が教えてくれます。キリスト教はことばの宗教なのです。
聖書は、神がどのようなお方で、かつて何をして、今何をして、将来何をするのか、そして私たちは神に対してどうすべきかを教えています。
聖書が教える神は、御父と御子と御霊(聖霊)という3つで1つの存在です。これをよく三位一体と言いますが、それは互いに愛し合う愛の交わりです。また御父と御子と御霊はそれぞれの役割を果たして神のご計画を進めます。
御父は天地万物と人間を造りました。御父とともに歩んでいた初めの人間は反逆して御父から離れ、人類は罪ある者となりましたが、御父はそんな人類を救うために御子イエス・キリストを2000年前この世に遣わしました。イエス・キリストは神のあり方を捨てて人として来られ、人類の罪の身代わりとして十字架にかかり罪からの救いの道を開きました。御霊は今私たちがイエス・キリストを信じて救いの道を歩めるようにこの世で働いています。
教会は何を信じているのか?その内容を短い文章で表したものが信仰告白です。カトリックでもプロテスタントでもギリシャ正教でもすべての教会が認める信仰告白として使徒信条があります。私たちの教会も信仰告白として「使徒信条」を用いています。
使徒信条
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に下り方面、3日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず。 アーメン
プロテスタントの流れにある私たちの教会は、旧新約聖書を唯一の聖典とし、聖書を誤りがない神のことばと信じ、イエスキリストの血による罪からの救いに立ち、毎週の主日礼拝を守り、聖書を読むことや祈ることや聖徒の交わりを大切にし、バプテスマ(洗礼)や聖餐式(キリストの十字架を偲ぶパンと杯の儀式)などの聖礼典を行っています。
信仰には信じる人達の生活が必ず伴います。心の中の信仰は形となって現れるのです。
それゆえ信仰は教会に来て礼拝に出たり信者たちと交わることをしなければ本当のところはよくわかりません。ですから、どなたでも気軽にいらしてください。歓迎します。