礼拝説教の要旨・2025年11月2日・黙示録8:1-13
“嵐の前の静けさ、聖徒の祈りは神のもとへ”
多くの人達が死んだらすべてが終わりだと思うが、聖書は死後の世界があり、そこで人生で何を考え、何をし、どのように歩んできたかが神の前で問われると教える。そうなると、だれでも口に出しては言えない恥ずかしいことがある。だれもが罪ある者であり神のさばきを避けることができない。でも、神はそんな私達に罪が赦されて死後、罪を問われることはないという救いを与えて下さる。罪の赦しはキリストの血による。キリストを信じる者はだれでもその救いがある。また、その救いがだれの目にも明らかになる時が来る。それがキリストの再臨だ。キリストが再び来られたとき私達を天国に引き上げることによって私達の救いが証明される。だが、素晴らしい救いをもたらすキリストに敵対し、キリスト者に圧力をかけ、その信仰を捨てさせたり、その信仰を捨てない者を殺すという迫害が昔からある。迫害は権力を持つ王や皇帝や国が行い、また家族や親戚、地域など周囲の人々も行う。
キリスト信仰は霊的な宝だから、サタンは信仰者からその宝を奪おうとして王や皇帝や国や周囲の人々を背後から操る。黙示録が書かれた紀元後90年代、皇帝による迫害があった。ヨハネはずいぶん高齢だったが、迫害のゆえにパトモスという島に閉じ込められた。でも、そんなヨハネに迫害に苦しむキリスト者への励ましと希望のみことばが与えられた。それが黙示録だ。8章からは、いよいよ再臨に先立つ大患難時代が始まる。6章で第一の封印を解くことが始まり、第六の封印まで解き、7章は休止し、8章で最後の第七の封印が解かれる。「子羊が第七の封印を解いたとき、天に半時間ほどの静けさがあった」“嵐の前の静けさ”である。別の御使いが金の香炉をもって祭壇のそばに立ち、香を焚き、すべての聖徒達の祈りを添えてその煙を神の御前に立ち上らせる。聖徒達の祈りとは何か?6章の「私達の血の復讐をなさらないのですか」という昔の殉教者達の祈りは説得力があるが、それよりもこれから起こる大患難で何とか守られ、乗り越えるようにという祈りだ。まだ信じていない人々が何とか信じて救われるようにという祈りもある。
次にその御使いがその香炉を取り、地に投げつけると大患難が始まる。子羊が第七の封印を解くと、7人の御使いが現れ、それぞれのラッパを吹く。8章は第4の患難までが書いてある。様々なものが失われるが、三分の一に抑えられる。全面的に破壊する最終的なさばきはまだ来ていない。これらの患難にどんな人々がいるか?キリスト者とそうでない人々がいる。酷い患難の間、キリスト者も恐れるが、祈った通りに守られる。ヨハネは出エジプト記をベースに8章を書いたようだ。だから8章には出エジプト記にある「雹」や「血」や「闇」という言葉が出て来る。出エジプト記には災害に苦しむエジプト人と、主を信じて災害から守られるイスラエル人がいる。だから8章はそれと同じようにキリスト者達は患難の中で守られ、そうでない人々は患難に苦しむ。どうしてか?私達がキリストを信じているからだ。キリスト信仰は霊的な宝だ。サタンはその宝を損ない失わせようとして試練や苦難や患難によって攻撃するが、主はキリストを信じる私達を危ない所を通しながらその信仰のゆえに守ってくださる。だからキリスト信仰を持って人生を歩んで行こう。
