礼拝説教の要旨・2025年1130・イザヤ6:1-13

滅亡する国から出て来た人類の救い主

南王国でダビデ王朝11代目のウジヤ王が死んだとき、イザヤは「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満ちるという神の臨在に触れて自分の罪を示され悔い改めると、セラフィムの燃えさかる炭によって罪の赦しが与えられ、「だれを、わたしは遣わそう。だれがーー行くだろうか」という呼びかけに「ここに私がおります。私を遣わしてください」と答えて預言者として歩み出した。だが主はイザヤのやる気を挫くようなことを語った。「この民に告げよ。“聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を固く閉ざせ。彼らがーー心で悟ることも、立ち返って癒されることもないように」こは新約の共観福音書種蒔きのたとえ話の後に引用される

若いイザヤは、そう言われても人々が主に立ち返ることを期待し「主よ、いつまでですか」と問う。でも、主はさらにその期待に反することを語る。「町々が荒れ果てて住む者がなく、――土地も荒れ果てて荒れ地となる。主が人を遠くに移し、――」イスラエル人の歴史はやがてこの通りになる。北王国はアッシリア帝国に滅ぼされ、人々が遠い外国に連れて行かれ。南王国はアッシリアを滅ぼしたバビロン帝国に滅ぼされ、エルサレムは陥落し、神殿は破壊され、ダビデ王朝は終わり、バビロン捕囚が起こり「主が人を遠くに移し」は再び成就する

でも、それですべてが終わりではなく、主は最後に小さな希望を残す。「そこには、なお十分の一が残るが、それさえも焼き払われる。しかし、切り倒されたテレビンや樫の木のように、それらの間に切り株が残る。この切り株こそ、聖なる裔」バビロンから戻った人々が国を再建したが、その後も周囲の大国に翻弄され支配されて屈辱を受け、結局、ローマ帝国時代に完璧に滅ぼされてイスラエル人は自分の国を失った。だが「聖なる裔」が残った。

彼らは聖別されて主のもとに残った少数の人々だ。イザヤ書は彼らを「残された者」と言う。「その日になると、イスラエルの残りの者、ヤコブの家の逃れの者は、もう二度と自分を打つ者に頼らず、イスラエルの聖なる方、主に真実をもって頼る。――」新約のローマ9:27に少し変え引用がある。「たとえ、イスラエルの子らの数が海の砂のようであっても、残りの者だけが救われる」これはイスラエル人で救い主を信じて救われる人達だから「聖なる裔」とはユダヤ人キリスト者のことだ

また「裔」はたくさんの子孫だけでなく、1人の子孫表すから「聖なる裔」とはキリストと言うことも出来る。ところで、いくらみことばを語っても民は悟らず主に立ち返ろうとせず、国は滅びるという御告げ希望がなく悲惨。もし通りに受け止めたら“みことばを伝えることなど、止めてしまえ”という思いになる。でも、イザヤは「聖なる裔」という小さな希望に期待しつつ「私を遣わしてください」という初めの決意を捨てなかった。

そのことが大預言者イザヤ生み出した初心忘れないことがいかに大切なことか教えられるなるという預言が成就して今から2000イエスキリスト来られた

アドベントこの時期このみことばを留めてクリスマス迎える準備しましょう。