礼拝説教の要旨・2025年11月9日・黙示録9:1-11
“額の神の印でいなごの害から守られる私達はどうするか”
私達は本来、神の前には罪ある者でその罪のゆえにやがて神にさばかれるが、その罪のために十字架にかかったキリストを信じたので私達の罪は赦され救われた。それは恵みによる救いだ。救われた人はこの世では救われていない人と変わらないが、キリストの再臨が来ると全く違う。救われた人は天の神のもとへ行き、救われていない人は滅びる。だから先に救われた私達は再臨が来る前に少しでも多くの人々が救いに導かれるように祈り、みことばを伝える。今の私達は再臨も患難時代も信じるが、それらは私達が生きているうちはまだ来ないと思い、意識は低くなりがちだ。だから聖書はキリストがいつ来てもいいように備えることを教える。黙示録には「時が近づいている」とか「わたしはすぐに来る」と書いてある。再臨とそれに先立つ患難時代をもうすぐ起こることとして読んで行こう。
前回の8章では第一から第四の御使いがラッパを吹いて様々な患難が起こった。患難によって死者が出たことも書いてあるが、死なないで苦しみを受けた人達のことは書いてない。
でも9章はそういう人達がテーマである。第五の御使いがラッパを吹くと、1つの星が天から地に落ち、その星には底知れぬ所に通じる穴の鍵が与えられ、その穴が開く。ルカ10:18「サタンが稲妻のように天から落ちるのを見た」この星は主のことばが示唆するサタンと考えられる。その穴から煙が上がり、その煙の中からイナゴが現れる。出エジプト記10章のイナゴの大群は草木を食い尽くしたが、人間に害を加えなかった。一方、黙示録9章のイナゴは反対に草木を食わず、人間の中の額に神の印を持たない人達に害を加えるように言い渡される。そう言ったのは、救われた者に神の印を付け、救われていない者にはそれを付けないお方、つまり神である。このイナゴは一見、昔の軍隊のように見え、底知れぬ所の使いを王とする。王の名はアバドン(へブル)アポリュオン(ギリシャ)どちらも滅びを意味する。イナゴの王とはサタンだ。神はサタンさえご計画のために用いる。イナゴはサソリのような尾と針でまだ救われていない人々を5ケ月の間苦しめる。人々は死にたくても死ねない。
何のためか?おそらく彼らに救いの機会を与えるためだ。私達は平穏無事なとき高慢になり、自分は主に頼らなくても大丈夫だと思い、主を求めることができない。だが、酷い苦しみに陥ったとき、自分はどうすることも出来なくて、主に助けや救いを求めるからだ。ところで、神の印がない人々が酷い苦しみに遭っている間、神の印がある私達はどうするのか?あいにくこの箇所には書いてないが、考えてみよう。まず私達は多くの人々がイナゴの患難に遭い、死ぬほどの苦しみを受けているとき、私達はその患難から守られていることを神に感謝できる。でも、私達がもし傍観者のように苦しむ人々を眺めるだけだとしたら神はそれを喜ばない。反対に私達が苦しむ人々をあわれみ、彼らのために祈ることで神は喜ぶ。そうするならば、彼らは慰められ、私達には救いの福音を伝える機会が与えられる。祈り福音を伝えることは恐ろしい患難に妨げられることなく最後の時まで続けるべきことだ。ノアは良い例だ。彼は洪水が始まる直前まで箱舟建造の作業を続けた。箱舟建造こそがその時代の祈りであり福音を伝えることだから。もうすぐ患難時代と再臨を迎える私達はノアの歩みに倣おう。
