礼拝説教の要旨・2026年3月29日・ヨハネ19:17-27
“イエスの十字架が生み出す神の家族”
冤罪で人生を台無しにされた人達がいる。同じように罪がないイエスキリストは罪人とされ十字架にかけられた。最悪の出来事だが、それは最善のものを生み出す神のご計画だった。そのために様々な人達が用いられた。ただし主の十字架のご計画や意味は分からず、ただ自分の思いや欲望のままに行うことで神のご計画は成し遂げられた。ユダヤ人の指導者達は“イエス憎し”の思いのままにイエス様を冒涜罪で死刑宣告し、総督ピラトに引き渡し、ローマの権力によって主を殺そうとした。ピラトはイエス様が無罪だと分かっていて釈放する努力をしたが、群衆の「十字架にかけろ」の叫びに暴動を恐れて主を十字架にかけた。でも、主は自ら進んで十字架を負った。ピラトが祭司長の訂正要求を退けた「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」の罪状書きは救い主が自分の民に拒否され十字架にかけられることを表し、
それがへブル語だけでなく帝国の共通語ラテン語やギリシャ語で書かれたことはユダヤ人の枠を越えてあらゆる民族に福音が伝えられる将来の世界宣教を表す。
さらに神が御子イエスを見捨てたことが最善の救いをもたらした。主を十字架にかけた兵士達はくじ引きをして当たった者は主の下着を取った。詩篇22篇の「彼らは私の衣服を分け合い、私の衣をくじ引きにします」の成就だ。著者ヨハネはそれによって22篇の冒頭の「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」を想起させようとしている。
「わが神、わが神、――」は父なる神に見捨てられた御子イエスの悲しみの叫びを表すが、それが主イエスが身代わりとして人類の罪を負ったことである。主が私達の罪を負われたから私達は罪の赦しと永遠のいのちが与えられる。だが、兵士達はそんなことは何も知らないで、ただ衣ほしさの欲望のままにしたことによって神が御子を見捨てて救いが私達にもたらされたことを示している。
主の十字架は神の家族を生み出した。十字架のそばには4人の女性がいた。
さて今言ったことと、イエスキリストの十字架は全く同じとは言えないですが、人々は何も考えておらず、何も分からず、勝手なことをしていたけれども、イエスキリストが十字架にかかることによって素晴らしいことが成し遂げられて良かったと言うことは同じです。
またイエスキリストの十字架は、神のご計画でありながら、様々な人間がかかわることによって成し遂げられた出来事です。だからその出来事が起こり、神のご計画が成し遂げられるために、良い人も悪い人も用いられる必要がありました。
ただし用いられたと言っても、主の十字架のご計画や意味をよく分かっていて、そのために進んで用いられた人達は1人もいませんでした。そのご計画や意味が分かっていたのはイエス様だけで、他の人達は何もわからないままで、ある人達は自分の思いのままに、ある人達は自分の欲望のままにイエス様にかかわることで用いられました。
またある人達は何もわからない中で、悲しみながら、イエス様の十字架にかかわりました。けれども、そのように人々には分からないけれども、人々がかかわることによって主の十字架のご計画が成し遂げられてその意味が明らかになりました。たとえば、
まず先週の復習から始めます。ユダヤ人指導者達は“イエス憎し”という思いのままに罪のないイエス様に死刑宣告をしました。それは普通なら悪いことですが、それによってイエス様はピラトの法廷に送られることになり、不正な裁判を経て、十字架にかけられました。
だから、ユダヤ人の指導者達がしたことは悪いことであっても、その悪いことが神のご計画のために用いられました。
またローマの総督ピラトはイエス様に罪がないことが分かっていてイエス様を釈放する努力をしましたが、ユダヤの群衆が「イエスを十字架につけろ、十字架につけろ」と彼に圧力をかけ、暴動を起こしそうになりました。そうなるとピラトは自分の立場が危うくなるので彼はそれを恐れて不本意ながらイエス様を十字架にかけました。
ピラトはイエス様を可哀そうな人物と考えたと思います。でもイエス様ご自身は全くそう思っておらず“さあ、これから神のご計画を成し遂げる”という思いでした。17節「イエスは自分で十字架を負った」のようにイエス様は十字架を無理やり負わされたのではなく自分で進んで十字架を負ったことにその思いが現れています。
さらにピラトはイエス様の罪状書きを「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」と書きました。
この罪状書きについてユダヤの祭司長達は「この者はユダヤ人の王と自称したと書いてください」と注文をつけました。
たぶんイエス様を憎んでいたから“イエスがユダヤ人の王だなんて気に入らない”と思ったのだと考えられます。けれども、ピラトは「私が書いたものは、書いたままにしておけ」と言って祭司長達の注文を突っぱねました。
それまでユダヤ人達の言いなりになって罪のないイエス様を十字架にかけてしまった腰抜けのピラトがどうしてこの時は突っぱねたのか?理由は分かりませんが、これは神のご計画を明らかにすることになりました。神のご計画とは何か? それは救い主がご自分の民に来たのにご自分の民はその救い主を拒否し、十字架にかけたことでした。
そのことは1章に「この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった」と書いてあります。だからピラトが祭司長達の要求を突っぱねたことによってイエスキリストが自分の民族であるユダヤ人に十字架にかけられることが神のご計画であることが公に示されました。
またもう1つあります。ピラトはイエス様の罪状書きをへブル語だけでなくラテン語やギリシャ語で書きました。へブル語はユダヤ人の言葉でありユダヤ人だけが理解できる言語でした。一方、ラテン語やギリシャ語はローマ帝国内のあらゆる民族で広く使われていた共通語でした。
だからその罪状がへブル語だけでなくラテン語やギリシャ語でも書かれたことはキリストの十字架がユダヤ人だけでなく、全人類のためのものであり、ユダヤ人の中から生まれたキリストの福音が世界中に広がることが、神のご計画であることを表しています。だからその時から約2000年が経って、世界中にキリストの福音が広がり、世界のあらゆるところに教会が生まれています。
ピラトはそんなことは何も知らなかったし、保身のために不正な裁判をやってしまったダメな裁判官でしたが、神のご計画のために大いに用いられました。
また兵士達がイエス様の衣を4つに分け、また下着をくじ引きにしたことも神のご計画を表していました。そのご計画とは、神の御子イエスが父なる神に見捨てられることによって人類の罪をその身に負われたということです。
当時、人を処刑する者は処刑される者の衣服を奪うことが許されていたようです。それで4人の兵士達は初めその衣を4つに分かて山分けをしました。けれども、下着は縫い目のないものだったので、くじ引きをしてくじが当たった人がその下着を取ることにしました。
ところで、その行為は旧約聖書の詩篇22篇に預言されたことでした。詩篇22篇は「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。私を救わず遠くに離れておられるのですか」から始まり、途中に「彼らは私の衣服を分け合い、私の衣をくじ引きにします」があります。だから兵士達がしたことはこれが成就したことでした。そして、
大事な点は衣ではなく「わが神、わが神」という所です。マタイ27章には「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」、マルコ15章には「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」の原文そのままの引用があります。両方とも「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」という意味であり、神の御子イエスが父なる神から見捨てられたことを言っています。
ところでヨハネには「わが神、わが神」の引用はないですが「衣服を分け合い、衣をくじ引きにする」の引用によって読む者に詩篇22篇の「わが神、わが神」を思い出させようとしています。それは言いましたように神の御子イエスが父なる神から見捨てられたことを表します。そして父なる神から見捨てられたとはどういうことか?
それこそがイエス様が人類の罪を負うために十字架にかかることです。イエス様は父に捨てられることによって私達の罪の身代わりとなりました。それがイエス様の十字架の意味です
でも、4人の兵士達は十字架にかかるイエス様のことなど何も考えないで、ただ衣が欲しいという欲望のままにしたことによって主の十字架の意味が明らかにされました。だから4人の兵士達もイエス様の十字架のために用いられました。
それからイエス様が以上のような導きで十字架にかけられたことによって神の家族が生み出されました。イエス様の十字架のそばにはイエス様の母とその姉妹とクロパの妻マリアとマグダラのマリアがいました。彼らもその時、十字架が神のご計画だとは分かっていなかったですから、悲しみながら十字架にかけられたイエス様の痛々しい姿を眺めていました。
彼らにとってそれは胸が引き裂かれるような光景だったと思います。
また他の弟子達は逃げていなくなりましたが、そこにイエス様が愛された弟子だけがいました。その弟子は最後の食事会でイエス様が「あなたがたのうちの1人が裏切ります」と言ったときに、イエス様の胸元にいた人であり、ペテロがだれのことかイエス様に尋ねるように合図して「主よ、それはだれのことですか」と尋ねた人でした。
さてイエス様は母マリアに「女の方」と声をかけました。2章のカナの婚礼でもイエス様は母マリアに「女の方」と声をかけましたが、その時は「あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません」と不思議なことを言いました。けれども今回はもうすぐイエス様は亡くなる頃ですから、ちょうど時が来ていました。
では、時が来てイエス様は母マリアに言われたこととは何か?そばに立っている愛する弟子を見てイエス様は「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と言いました。次に、その弟子に「ご覧なさい。あなたの母です」と言いました。
イエス様はもうすぐこの世から去って行こうとしていました。でも、年老いた母マリアはまだこの世に残りますから母の面倒を見る人が必要です。そのために愛する弟子に母のことを任せたのか?そうではありません。
イエス様には弟達や妹達がいました。年老いた母の面倒は彼らが見ることになります。では、なぜ母マリアに家族ではない弟子のことを「あなたの息子」と言い、なぜ弟子に家族ではないマリアのことを「あなたの母」と言ったのか?これには、深い意味があります。その意味とはこれから血縁にはよらない神の家族が始まるということです。
神の家族とは何か?それはイエス様を救い主として信じる者達が集まる群れです。その群れとは別の言い方をすると教会です。だから神の家族とは教会です。そして教会はイエスキリストの十字架を土台としてできる神の家族です。
ヨハネ2章のカナの婚礼のとき、イエス様はまだ十字架にかかっていませんでした。だから
あの時、イエス様は「私の時はまだ来ていません」と言いました。けれどもイエス様は今、
十字架にかかっていました。罪の贖いが成し遂げられつつありました。
だからイエス様は母マリアに「その弟子はあなたの息子です」と言い、その弟子に「マリアはあなたの母です」と言うことで、これから神の家族が始まることを宣言されました。イエス様は神の家族を建て上げるために十字架の上で血を流されたのです。
使徒20章にも教会について「神がご自分の血をもって買い取られた神の教会」と語っています。だから神の家族である教会は、イエス様の血によって買い取られたものなのです。
私達は毎週、教会に集まり、礼拝を献げ、聖徒の交わりをしていますが、この集まり、この
交わりは、イエス様の血によって生まれたものなのです。それは基本だからよく知っていると言うがほとんどだと思います。けれども、このヨハネ19章を見て再びその基本に立ち返ってください。十字架の上からイエス様が「これはあなたの息子、これはあなたの母」と語られたことを思い出して神の家族を建て上げることを第一に求めてください
