礼拝説教の要旨・2025年8月31日・黙示録6:1-17
“キリストは世の終わりの道案内”
1章は全体の序論。ヨハネはパトモスで神からある幻が与えられた。イエスキリストの黙示だ。黙示とは隠されていたものが明らかになること。黙示とは預言だ。預言の核心部分は、イエスキリストの再臨だ。2-3章は小アジアの7つの教会だけでなく全世界へのメッセージ。4章は天の幻。天には御座があり、そこに着くのは神。御座の周りの24人の長老達と4つの生き物は神を礼拝する。5章も天の幻。長老達と4つの生き物の真ん中に屠られた姿の子羊キリストがいた。神が右手に持っていた巻物を子羊キリストに渡すと4つの生き物と長老達は、神と子羊キリストを礼拝した。6章以降でキリストは少しずつ封印を解いて巻物を開く。それは大患難時代の預言だ。マタイ24章にも短くその預言が書いてある。
大患難時代と再臨に関して2つの説がある。患難期前再臨説という大患難時代の前にキリストが再臨する説。1テサロニケ4:17。空中携挙と言い、秘密のうちにこの世から教会が取り去られ、大患難時代には教会は存在しないと言う。一方、患難期後再臨説というマタイ24章や黙示録の順序通り再臨は大患難時代の後に起こる説。再臨が患難期の前なのか?後なのか?未来のことは分からない。どちらの説でもOKだが、大患難時代には教会やキリスト者が存在しないと6章以降を学ぶ必要がなくなる。だからこの学びでは患難期後再臨説に立ってお話しする。この説によると、大患難時代の苦難を私達は避けることができないが、主はその中で私達を守り、その苦難を乗り越えさせてくださる。1コリント10:13を参照。
6章では子羊キリストがそれぞれ封印を解くと、様々な試練や苦難が現れる。6:1-2。軍隊が戦争を起こす。6:3-4。赤い馬の乗り手は地から平和を奪い取ることが許され、人々が互いに殺し合う。赤は流血を表す。多くの人々が血を流す戦いが起こる。6:5-6黒い馬の乗り手は秤を持つ。1デナリは1日分の給料。1コイ二クスは1日働いて1人がようやく食べるだけの小麦、3コイ二クスは家族がようやく食べるだけの大麦。オリーブ油とぶどう酒は贅沢品だが、それらをキチンと確保せよとは戦争が起こり社会は乱れ、貧富の差が激しくなること。6:7-8。青ざめた馬の乗り手の名は「死」で「よみ」がそれに従う。地上の4分の1を支配し、剣と飢饉と死病と地の獣によって人々を殺す。恐ろしい世界が来るが、主はその中で私達を守って下さる。6:9-11。祭壇の下の殉教者達の魂が主に問うと、主は1人1人に白い衣を与え、「同じように殺される兄弟達の数が満ちるまで休んでいなさい」とこれからも迫害があり、殉教する者が現れるから“備えておきなさい”と暗に語る。だが、たとえ迫害が来ても主はその中で私達を守り、たとえ殉教でも犬死ではなく主の御前で栄誉が与えられる。6:12-14。天変地異はキリスト再臨の前の苦難。6:15―17。人々は洞穴や山の岩間に身を隠し、山が崩れて神と子羊の御怒りから自分達を隠すシェルターとなることを願う。その苦難は私達も襲う。だが、その時に主が再臨し私達は主のもとに集められる。マタイ24:30―31。試練や苦難は必ず来るが、ただ恐れ逃げるだけで問題と取り組まなければ道は開かれない。でも、主はその問題の中で私達を守り、最後に神のさばきから救い出してくださる。この希望の信仰をもって歩むことをお勧めしたい。
