礼拝説教の要旨・2025年10月5日・ルカ9:10-17
“どんな時でも、主は食卓を豊かに満たして下さる”
五千人の給食は全福音書にある記事であり、奇跡中の奇跡と言われる。その前に伝道旅行の報告会があり“自分達に必要なものはすべて主が与えて下さった”と証ししたようだ。
イエス様はその報告を聞くと、彼らを連れてベツサイダへ密かに行った。その目的は休息のためだ。けれども、群衆は気づいて追っかけてきたのでイエス様は群衆のために奉仕せざるを得なくなった。マルコ6章には群衆が羊飼いのいない羊の群れのようなので、主は彼らを深くあわれんだと書いてある。だが、ルカは人々の霊的状態や人々に対するイエス様の熱い思いは何も書かないで人々に神の国のことを話し、癒しを行ったことだけを書いている。
日が傾き始めて夕方になると、弟子達は夕食が気になり、「群衆を解散させてください。そうすれば、彼らは周りの村や里に行き、宿をとり、何か食べることができるでしょう。私達は、このような寂しいところにいるのですから」と言い出す。寂しい所とはマルコによると「人里離れた所」である。
夕方に「人里離れた寂しい所」から周りの村や里に行くのは、暗い道に迷うかもしれないし、村や里に着くのは真夜中になるし非現実的なことだが、弟子達はそれを承知の上で「周りの村や里に行き、宿を取ったら」と宿泊を提案する。一見現実的に見えるが、男だけで5000人の群衆を泊められる宿があったのか?疑問だ。だから弟子達は根拠があって宿泊を提案したのではなくて厄介な群衆を何とかするために苦し紛れに言ったことだと考えられる。弟子達は伝道旅行の経験から主は自分達に必要なものを与えて下さるという信仰を持つことができた。だが、群衆のためにも主が必要を満たして下さるという信仰は彼らになかった。
だから「群衆を解散させてください」とは自分達の手に余る群衆から早く離れて休みたいという思いの表れだ。けれども、イエス様はそう思う弟子達に「あなたがたが、あの人達に食べる物をあげなさい」と語られた。
「私達には五つのパンと二匹の魚しかありません。私達が出かけて行って、この民全員のために食べ物を買うのでしょうか」弟子達はイエス様に対して“そんなこと無理ですよ”文句を言っている。もし仮に私達がその場所にいたら同じことを言うでしょう。だが、主は弟子達が何と言おうと進めた。それで弟子達はイエス様の指示通りに群衆を50人ぐらいの組にして座らせ、パンと魚を配り出すと、不思議なことが起こった。パンや魚はどんどん増えて人々は食べて満腹し、余ったパン切れを集めると12籠が一杯に。12籠が一杯とは、初めよりも後のほうが遥かに多いことだ。必要以上に満たされた。しかも、奇跡はブツブツ文句を言いながらパンや魚を配る弟子達の目の前で起こった。彼らはその奇跡が起こる様子を見て文句がたちまちなくなり主の偉大さを思い知らされたに違いない。その時の彼らの気持ちは何も書いてないが恥ずかしく思い“自分達には信仰や愛が足りなかった”ことを示されたに違いない。だが、それは彼らの信仰が成長するために必要なことだった。“自分達には信仰が足りなかった。愛が足りなかった”と恥ずかしく思うことで信仰は成長するからである。
このことは私達にとっても同じである。恥ずかしさを成長の原動力としていこう。
