礼拝説教の要旨・2025年10月12日・ルカ9:18-27
“あなたがたはイエス様をだれだと言いますか”
無名だったイエス様が有名になってきた頃、イエス様について様々な噂があり、弟子達も当然、それを聞いていた。主は弟子達が自分のことをどう思うのか気にして弟子達に「群衆はわたしのことをだれだと言っていますか」と尋ねた。彼らは「バプテスマのヨハネ」「エリヤ」「昔の預言者の1人が生き返った」という噂を話した。次に主が「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」と尋ねると、ペテロが「神のキリストです」と答えた。キリストとはメシア(神に油注がれた者)である。イスラエル人にとってメシアとは、ダビデの子孫で王となる者である。その通りにダビデ王朝が続いたが、ダビデ王朝が途絶えた後もダビデの子孫が王となるという思想がイスラエル人の間に続いていた。ところで、イエス様はダビデの子孫だ。その後、旧約時代と新約時代の間の中間時代にイスラエルは大国に支配されて政治的な苦難を味わうようになると、イスラエル人は独立を取り戻してくれる政治的なメシアを待望し、特にその終わり頃、ローマの支配下で自分達の国を再興する王を熱烈に求めた。
だから新約聖書にはイエス様を王と言う箇所がたくさんある。「娘シオンに言え。見よ、あなたの王があなたの所に来る。」「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方、イスラエルの王に。」「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」王であるイエス様に対して弟子達は世俗的な期待も抱いていた。ゼべタイの子ヤコブとヨハネは主が国を再興した時には「1人をあなたの右に、もう1人を左に座るようにしてください」とお願いした。それを聞いて他の10人は腹を立てた。皆が同じような期待を抱いていたが、主はデリケートな問題を避けるために自分がキリストであることをだれにも話さないよう命じた。さらに主は世俗的な期待を完全にシャットアウトするために、本当の神のご計画をズバリ語った。「人の子は多くの苦しみを受け、長老達、祭司長達、律法学者達に捨てられ、殺され、三日目によみがえらなければならない」主はイスラエルを代表する人々に捨てられて殺される。イスラエルの王としてたたえられるのとは全く逆になる。これが神のご計画だ。
マタイ16章はペテロが反発し、主が彼を戒めた様子を描くが、ルカは自分達の期待にまったく反する神のご計画を突き付けられるチャレンジを描く。私達は自分が願い期待することが神のご計画であることを望むが、そうならないことがよく起こる。「自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」「自分のいのちを救おうとする者はそれを失い、――」「人は、たとえ全世界を手に入れても、――」これらはすべて神のご計画に従うために自分のあり方を変えるチャレンジだ。「だれでも、わたしとわたしのことばを恥じるなら、人の子もまた、自分と父と聖なる御使いの栄光を帯びてやって来るとき、その人を恥じます」主の十字架を恥と思うなら、再臨のとき主はその人を恥と思う。だから主の十字架を誇りとせよと教えた。その時、弟子達はまったく理解できなかったが、主の十字架の死と復活の後、理解できて主の十字架を誇りとするようになった。彼らは“昔の自分達は何も分かっていなかった”と恥ずかしく思ったであろう。今の私達は主を信じて救われ、大したことはできないが、少なくとも主の十字架は誇りだ。これは幸いなことである。
