礼拝説教の要旨・2025年12月14日・イザヤ8:1-18
“最後の勝利はインマヌエル、神と共にある者へ”
7章の復習。南ユダはアラムと北イスラエル(エフライム)の連合軍の攻撃に脅かされ、アハズ王も民も非常に恐れ、南ユダは危機にあった。アハズ王はこの危機を政治的な駆け引きで乗り越えようとアッシリア帝国に使者を遣わし、助けを求めた。そんな時、イザヤは息子のシェアル・ヤシュブとともにアハズを訪ね、主への信頼を勧めた。だが、アハズは受け入れないから、イザヤはさらに「処女が身ごもり、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」と語り、アッシリアは元々、世界征服を目指す侵略国家だから、その子が分別を身につける前にアラムとエフライムを滅ぼし、さらにやがて南ユダにも攻めて来ると預言した。
8章は7章の少し後の出来事。次の子の名はマへル・シャラル・ハシュ・バズ。侵略者がすばやく分捕り物を持ち去るという意味。アラムと北イスラエルはもうじきアッシリアに滅ぼされること。だが「シロアハの水を拒み、レツィンとレマルヤの子を喜ぶ」人達、つまりアハズや南ユダを見限って敵に内通する人達がいた。けれどもアッシリアがアラムも北イスラエルも滅ぼすだけでなく、やがて南ユダにも攻めて来る。けれども「諸国の民よ、打ち砕かれよ。遠く離れたすべての国々よ、耳を傾けよ。腰の帯をして、わななけ。――事を謀れ。しかしそれは成らない。神が私達とともにおられるからだ」諸国とはアラム、北イスラエル、アッシリアなどあらゆる国のこと。どんな国が謀りごとを考えて南ユダを滅ぼそうとしても、南ユダは何とか守られ滅ぼされない。なぜなら南ユダには神がともにおられるからだ。
ここからイザヤへのみことば「この民が謀反と呼ぶことを何1つ謀反と呼ぶな。この民が恐れるものを恐れてはならない」アハズ王がアッシリアと同盟を結ぶとき、それに異を唱えて「主に信頼せよ」と言うと、王や国に対する“謀反だ”と批判されるかもしれないが、批判を恐れるな。民はアラムと北イスラエルの連合軍を恐れるが、イザヤはアッシリアが彼らを滅ぼすことを知っていたから、もちろん恐れることはないだろうが、ただ主を聖なる者として恐れなさいと彼を励ます。「そうすれば、主が聖所になる。しかし、イスラエルの二つの家にとっては妨げの石、つまずきの岩となり」イザヤが主を恐れ、信頼するなら、主は彼にとって聖所となり守られるが、北イスラエルも南ユダも主から離れ、みことばを聞かないから北イスラエルはアッシリアに滅ぼされ、南ユダは奇跡的に救われるが、やがてバビロン帝国に滅ぼされる。次もイザヤ自身へのみことば。「この証しの書を束ねよ。このおしえをわたしの弟子達のうちで封印せよ。」「この証し」や「このおしえ」とはイザヤが語るみことば。多くの人々にみことばを語るが、ほとんどの人達は聞かない。少数の人達だけが真剣に聞く。「わたしの弟子達のうちで封印せよ」とは真剣に聞く少数の人達がみことばをその心に保ち、後の人達に伝えるようにすることと考えられる。この少数の人達はイザヤの長子シェアル・ヤシュブが表す「帰って来る残りの者」と考えられる。「私は主を待ち望む。――私はこの方に望みを置く」これはイザヤの信仰を表す。「私と、主が私に下さった子達は―――イスラエルのしるしとなり、また不思議となっている」イザヤは難しい状況の中で自分と弟子達に期待していた。“残りの者が帰って来る”という信仰があったからだ。
