礼拝説教の要旨・2025年12月21日・マタイ1:18-25
“ダビデの子ヨセフよ、救い主の父になりなさい”
イザヤ8章後半「民は自分の神に尋ねるべきではないか」「みおしえと証しに尋ねなければならない」しかし現実は神に尋ねず、みおしえや証しにも尋ねず、飢えて怒り、自分の王や神を呪い、苦難と暗闇がおおい、希望がない悲惨な状態だ。これは私達の心の中の風景を描いている。けれども9章になると打って変わって希望が現れる。「闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る」その希望はひとりの男の子の誕生であり「主権はその肩にあり」その子は王になる。「ダビデの王座に就いて」ユダヤ人にとってダビデは重要な存在だ。イザヤはダビデの子孫から永遠の王が現れ、永遠に続く王国が出来ると預言した。ダビデ王朝は22代続いたが、BC500年代に国が滅び、王朝は途絶え、ダビデの子孫は没落した。けれどもユダヤ人はその預言を信じてダビデの子孫として救い主が来ることを待ち望んでいた。そして約2000年前、イザヤの時から約700年後、イエス様は生れた。
イエス様がダビデの子孫として生まれるために神はヨセフを選んだ。彼は大工として偉大な先祖とまるで関係がない、貧しく平凡な生活をし、マリアという女性と婚約していた。
一方、神はイエス様を産む母としてマリアを選んだ。彼女には、御使いを通して神の子を産むという知らせがあったがヨセフはそれを知らなかったから婚約中のマリアの妊娠に驚き、彼女を疑い、深く悩み、彼女にとって最善の策として「ひそかに離縁する」ことを考えた。けれども、彼は夢の中で御使いを通して「ダビデの子ヨセフよ。恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。」と示された。聖霊により生まれる子は人の種ではなく神の種により生まれるから神の子である。「マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい」ユダヤ人の名前には意味があるが、イエスとは「主は救い」を意味する。“救い主になれ”という神のみこころが込められていた。だから「この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです」と続く。
イエス様は私達を罪から救う。罪とは何か?イザヤ8章後半を言い換えると、罪とは神から離れてしまい、神に尋ねたり、神の教えを尋ねたりすることが全くなく、自分が神になり自分の思いや欲望のままに生き、他者を顧みず、この世の悪い思想や偏見にどっぷり影響され、愛や正義を忘れてしまうことだ。ここで言う罪とは何か犯罪を犯したり、人を傷つけるような何か悪いことをすることではない。人間である以上、どんなに善良な人でも、どんなに偉大な人でも神の前に出たら罪があり、その罪をそのままにしておくと人間は自分の罪のゆえに滅びる。けれども、神は滅びてしまう私達をあわれんで、その罪から私達を救う救い主を遣わした。それがイエスキリストだ。イエス様は私達の罪の身代わりとして十字架にかかり、十字架で流されたその血によって私達を罪から救ってくださる。神はイエス様によってご自分の民を救う。神にとってご自分の民とはすべての私達である。だれでも自分が神の前には罪があることを認め、その罪のためにイエス様が十字架にかかられたと信じるなら罪から救われ神の民となる。神の民になるとは神や神の教えに尋ねて神とともに歩む本来の姿に戻ること。インマヌエル(神が私達とともにおられる)がその姿を表している。
