礼拝説教の要旨・2026年3月8日・ヨハネ15:1-17
“キリストはぶどうの木、私たちはその枝”
2回目の告別説教はイエス様が去った後、始まる教会造りについて語る。使徒の働きは教会がどのように生まれ、成長し、拡大したのかを教えるが、教会とは何か?という基本的な問いに答えない。だが、15章はその問いに答える。「わたし」はイエスキリスト、「わたしの父」は父なる神、「ぶどうの木」は教会、その木につながる「枝」は1人1人のキリスト者。「人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます」キリスト信仰にとどまることは間違いではないが、正確にはキリスト信仰を保ちながら教会にとどまることだ。教会に行かなくても1人で聖書を読んで祈ればOKと言う人がいるが、独りよがりで歪んだ信仰になる危険性がある。集まらなければ教会ではない。
私達は集まることで聖徒の交わりを持ち、成長し、実を結ぶことができる。それが教会だ。
主は愛を強調するが、その愛とは互いに愛し合うことだ。神が主イエスを愛したように主イエスは弟子達や私達を愛した。だからその愛にとどまりなさい。それは何か?主の戒めを守ることと言うが、厳しい戒律を守ることではない。「わたしがあなたがたを愛したようにあなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです」これはごく普通のこと。教会から愛がなくなり冷たい交わりになったら人は去ってしまうから互いに愛し合うことが是非とも必要。たった1人で「互いに愛し合う」ことはできない。少なくとも2人以上の複数の人達が集まる所で出来る。それが教会だ。互いに愛し合うとき、人にはそれぞれの性格や個性があるから忍耐が必要。1コリント13章の「愛は寛容」は忍耐だ。あの人は私に忍耐させるが、私もこの人に忍耐させる。だれも忍耐させないはあり得ない。この現実を受け止め、忍耐して良い方向に導くのが互いに愛し合うこと。そのために「実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、もっと多くの実を結ぶように刈り込みをなさる」刈り込みとは自分の我儘を通したくなる自我を抑えることである。
「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はない」こんな大きな愛を受けたから互いに愛し合うべきだ。「愛し合うなら、あなたがたはわたしの友」主はしもべと比べることで友の意味を説明する。主人はしもべにやるべき仕事だけを教え、その他は教えない。上下関係がある。だが、主は父から聞いたことをすべて弟子達に知らせた。上下関係はなく対等なのが友だ。主が言う弟子の理想像は主の友になることだ。何のためか?
私達がより良く互いに愛し合えるようになるため。またしもべと友の違いから説明する。
しもべは仕事の全体を任されていないから主人に命じられたことだけを行う。何が良いか悪いか、何が適切か自分で判断せず、決まったことしかしない。一方、友はすべてのことが教えられ任されているので何が良いか悪いか何が適切か自分で判断する。性格や個性が様々な人達に対応するために自分で判断して適切に対応することは互いに愛し合うために大切な要素だ。どうして主の友になれるのか?「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました」主の選びには私達への信頼がある。“わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたはできる。愛の教会を築きなさい”と励ましている。
