礼拝説教の要旨・2026年5月10日・使徒1:12-17
“神のみこころは聖書のみことばから来る”
福音書の「弟子」は使徒の働きで「使徒」となる。その違いは?弟子は主の教えを求めて主についていく者、使徒は主に遣わされて主の福音を宣べ伝える者。弟子は使徒へと成長する。だが、使徒1章の使徒は実質的にまだ弟子。使徒になる最後の過程を描く。主は以前から宣教について語っていたが、弟子達は初めから100%受け入れ進もうとしていたのではない。主の復活後、故郷のガリラヤで短い間、漁師の仕事に戻ったことがあり、また宣教よりもイスラエルの国の再興を求めるところがあった。主はそんな彼らを宣教に向かわせるために彼らに聖霊が注がれて力を受け、地の果てまで主の証人となることを予告し、昇天された。彼らの思いはやっと宣教に向かうようになるが、まだ完璧に使徒となったのではない。彼らはオリーブ山から“安息日の道のり”にあるエルサレムに行き、心を1つにして祈り始めた。
祈りだした1人1人を紹介する。ペテロはケパとも言う。本名はシモン。リーダー的な存在。ヨハネは弟子達の中で一番若い。初期の頃、ペテロと行動を共にするが、年を取ってから小アジアで奉仕し、晩年はエーゲ海のパトモス島に。ヤコブはゼべタイの子、ヨハネの兄で最初の殉教者。アンデレはペテロの兄弟で彼がペテロを主のもとに連れて来た。ピリポは主に声をかけられたとき、友人のナタナエルを連れて来た。ナタナエルは共観福音書のバルトロマイと考えられる。トマスはデドモ(双子)と呼ばれるが、双子の1人だったようだ。インド宣教の伝説がある。マタイは取税人、レビという名前もある。アルパヨの子ヤコブ、ヤコブはよくある名前だからゼベダイの子と区別するため。熱心党員シモン、熱心党は国粋主義のセクト。ヤコブの子ユダ、イスカリオテのユダと区別するため、マタイとマルコのタダイかもしれない。主イエスと行動を共にした女性達と母マリアがいた。主の生存中は、兄を救い主と信じていなかった弟達も主の復活後は兄を救い主と信じて祈りに加わる。
弟子達は聖霊の力を求めて祈りだし、宣教を始める用意は出来つつあったが、ほんの少し備えるべきことがあった。それはユダの裏切りで成就した主の十字架だ。会計の仕事を任されるほど信頼されていたユダが裏切り、主が逮捕されるために手引きをした。弟子達は十字架後にユダの裏切りを知るが、それは大きな衝撃だった。だが、弟子達はユダに対する怒りや憎しみは何も語らず「聖霊がダビデの口を通して語った聖書のことばが成就しなければならない」と語るだけ。そのことばとは詩篇だ。たとえば、詩篇22篇「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。」御子イエスが父なる神に見捨てられ、人々の蔑みの的になったことは神のご計画だ。私達の救いの道を定めるために御子イエスは私達の罪の身代わりとして十字架にかかられた。イザヤ53章「――彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに私たちは癒された。――彼を砕いて病を負わせることは主のみこころであった」
すぐに始まる宣教に備えるべきことは聖霊の力を受けることではなく主の十字架の死と復活は神のご計画という信仰の基本を確認することだった。その基本に立つ者の上に聖霊の力は与えられる。私達もその基本に立ち、聖霊の力を受けて福音を伝える者となろう。
