使徒21:15-26、1コリント9:19-20
内田耕治師
初代教会には2つの流れがありました。初めに現れた流れは、エルサレムでイエス様の弟子達から始まったユダヤ人キリスト者でした。後で現れた流れは伝道者パウロが救いに導いた異邦人キリスト者達でした。両者ともイエスキリストを信じて救われたことは同じですが、昔からあったモーセの律法をどう扱うかについては違いがありました。ユダヤ人キリスト者はモーセの律法に定められた通りに割礼を受け、慣習を忠実に守っていました。けれども、異邦人にモーセの律法を守らせるのは無理な話だったのでパウロは異邦人には律法が命じる慣習を守ることを要求しませんでした。でもユダヤ人キリスト者の中で強硬なユダヤ主義者は“異邦人もモーセの慣習に従って割礼を受けなければ救われない”と主張し、パウロと対立していました。エルサレム会議で話し合われた結果、異邦人キリスト者は割礼を受けたり、その他の慣習を守る必要はないけれどもユダヤ人キリスト者との摩擦を避けるために“偶像に供えた物と血と絞め殺した物と不品行”を避けることになりました。けれども、その後もパウロに対するユダヤ人の迫害は続きました。「(パウロは)子供に割礼を施すな慣習に従って歩むなと言ってモーセに背くように教えている」という思い込みで敵意を燃やし命さえ狙う者達が出てきました。
パウロは迫害され殺されることさえ覚悟の上でエルサレムにやってきました。主の兄弟ヤコブや長老達はパウロとユダヤ主義者の対立は初代教会を分裂させる可能性があるので非常に心配し、それを防ぐためにある策を考えました。それは4人の人が行おうとしていた身をきよめ、頭をそる儀式にパウロも参加し、さらにその費用も出すことでパウロがモーセの律法に忠実だということを、ユダヤ人達に身をもって示すことでした。何よりもキリスト者の一致を大事にするパウロは分裂を避け、ユダヤ人キリスト者とともに歩み続けるために譲歩してヤコブと長老達が示した案に従いました。
「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。―――」
1コリント9:19-20
パウロは自由ですが、ユダヤ人には進んでユダヤ人のようになりました。キリストの愛によることです。その愛は「獲得するためです」という言葉に表れています。それは救いに導くという意味ですが、少し拡大して“和解する”とか“交わりを持つ”とか“信頼を得る”と考えることもできます。愛による譲歩とは自分の意見を持ちながら必要とあらば、それを引っ込めて相手を受け入れることです。聖書が教える自由とは、私達が考える自由とは違います。私達が考える自由は束縛されることなく自分の思い通りにすることです。それを追求すると自分勝手になります。でも、聖書の教える自由とは自分の意見に縛られないで自分さえも相対化して柔軟に対応することが出来ることです。だれでもその置かれた所で自分と合わない人と出会い、頑なになるか柔軟に対応するかが試されています。キリストの愛によって頑なにならないでいろんな人達を受け入れることができれば幸いです。