ルカ6:37-38
“憐れみはさばきに対して勝ち誇る”
基本的にさばくことは神がなさることだが、私達にもある程度、さばきが委ねられている。社会には裁判があり教会でもとりわけ酷い問題行動をさばく教会戒規がある。だが、私達に委ねられたさばき以外に、陰口とか、あら探しとか、根拠のない批判とか、気が合わないだけで悪く言うなど非公式のさばきはすべきではない。初代教会では食べ物や貧富の差がさばき合う原因になったが、イエス様はそれを見越して“さばくな、不義に定めるな”と戒めた。さばかない、不義に定めないとは赦すことだ。 赦すとは借金を帳消しにして解放することから来ている。マタイ18章の家来の負債を赦した王様のたとえ話は良い例だ。赦すとは漠然と気が合わない人を我慢で受け入れることではなく自分との間に何か問題があり負い目のある人を赦す行為だ。「だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい」教会生活が長くなると、だれでも問題が1つや2つあると思うが、互いに赦し合い、結びの帯として愛をつけよと教える。そして「与えなさい」と命じる。
「さばくな」「不義に定めるな」「赦せ」「与えなさい」という4つの命令の後に必ず「そうすれば」が続き、それらに従えば「あなたはさばかれない」「あなたは不義に定められない」「あなたは赦される」「あなたは与えられる」となる。だれがそうするのか?神である。さばかないのは神、不義に定めないのも神、赦すのも神、与えて下さるのも神だ。「あなたがたが量るその秤で、あなたがたも量り返してもらえる」私達がだれかをさばけば、神は私達のさばきの秤を用いて私達をさばく。私達がだれかを赦せば、神は私達の赦す秤を用いて赦してくださる。私達がだれかに与えれば、神は私達の与える秤を用いて与えてくださる。しかも神は非常に気前が良い。たとえば袋の中に品物を入れるときにケチな商売人は袋に入れる量をできるだけ減らそうとする。だが、神は袋がいっぱいになるように品物を詰め込み、揺すって、溢れ出るほど入れてくれる。だから、さばきではなく、赦しの秤を、惜しむのではなく、惜しみなく与える秤を持つことを勧めている。
マタイ18章の王様と家来のたとえ話も同じことを勧めている。初め王様は1万タラントの借金がある家来を可哀そうに思って赦して負債を免除した。だが、その後、その家来は自分に百デナリの借りがある仲間の1人を見つけて彼に「借金を返せ」と言い、仲間が猶予を願っても拒否し、牢に放り込んだ。それを聞いた王様はその家来を呼び「私はおまえの負債をすべて免除してやった。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか」と言って彼を牢獄に放り込んだ。彼は仲間を赦さなかったために王様は彼を赦さなかった。だが、もし彼が仲間を赦したならば、王様は彼を赦した。だから、このたとえ話は、さばきやすい私達に赦す秤を持つように、出し惜しみしやすい私達に惜しみなく与える秤を持つよう勧めている。赦したり与えたりする秤とは言い方を変えると「あわれみ」だ。しかも、できる限りでOKだ。1デナリは1日分の労働者の給料。1タラントは6千デナリ。だから1万タラントは百デナリとは桁違いの大金だが、私達に要求されるのは百デナリだ。私達ができる限りのあわれみをだれかに示したら神は私達に桁違いの大きなあわれみを示してくださる。神は2種類の秤を持っている。1つはさばきの秤。もう1つは愛とあわれみの秤。もし私達がさばきたがるならば神はさばきの秤で私達に量り返すが、もし赦し与え助けるなら神は愛とあわれみの秤で気前良く私達に与えて下さる。