ルカ6:39-42

“盲人を導く主の案内人となるために”

「盲人が盲人を案内できるでしょうか。2人とも穴に落ち込まないでしょうか。」当然、落ち込むから危ないことだ。そんなことはしてはならない。けれども、この盲人とは肉眼が見えないのではなく、霊的および信仰的なことが何も分からないことだ。案内とは、そんな人に聖書によって霊的真理を伝え、信仰に導くことだ。ローマ2章には案内人について「目の見えない人の案内人、闇の中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師」と書いてある。

「弟子は師以上の者ではありません。しかし、だれでも十分に訓練を受ければ、自分の師のようにはなります。」だれでもイエス様を信じて救われた者は主の弟子であるが、訓練を受けることによってだれでも自分の師と同じレベルの案内人になることが出来る。案内人は信仰に熱心な人や優秀な人や牧師や宣教師だけがなれるのではない、だれでも案内人になれる。そのために大事なことは訓練である。訓練とはみことば、祈り、教会生活である。だれもが霊的な案内人になることを目指すべきだ。弟子になったが、訓練を十分に受けなければ心許ない案内人になってしまう。教会はこの問題を解決する努力が必要だ。では、訓練とはどんなことか?

「自分自身の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。あなた自身、自分の目にある梁が見えていないのに、兄弟に対して“兄弟、あなたの目の塵を取り除かせてください“と、どうして言えるのですか。」塵とは小さな問題だが、案内人である私達は人の小さな問題が気になって一言二言、言いたくなる。一方、梁とは家の屋根を支える材木。新共同訳はそれを「丸太」と訳す。梁とは大きな問題だ。案内人である私達は自分に大きな問題があるのに、その問題に気がつかないで人の小さな問題ばかり気がついてとやかく言う。それこそ問題だ。イエス様は自分の梁を棚に上げて兄弟の目の塵ばかりとやかく言う私達を「偽善者」と厳しく批判する。この厳しい批判にまずは耳を傾ける必要がある。

「自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、兄弟の目の塵がはっきり見えるようになって、取り除くことができます。」 私達の梁とは何なのか?イエス様を信じて救われた私達は真の神を知り、自分の罪を知り、罪からの救い主を知って霊的に目が開かれた者だから、まだ目が開かれていない人達を導く案内人だ。まだよく分からない初心者や信仰生活から外れて道を迷う人達も導く。私達は自分は案内人だという確信をしっかり持つが、自分が上に立って案内してやるという優越感を持つと、案内する私達と案内される人達の間に壁ができ、その壁は案内の妨げになる。だから取り除くべき梁とは、人に対する優越感だ。「互いに1つ心になり、思い上がることなく、むしろ身分の低い人たちと交わりなさい。自分を知恵のある者と考えてはいけません」身分の低い人達は優越感を持ちにくいが、上下関係ができないように注意が必要。大事なことは1つの心だ。過度にさばく律法主義も取り除くべき梁だ。どうしてもさばくべきことを除いて、些細なことはさばかないで暖かく見守るようにする。過度にさばく律法主義は案外、私達の心にある不満から来ている。不満があるから身近な人に辛く当たる。だから自分の心を点検し、自分の心が神の愛に満たされるよう祈ろう。「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」

思い上がることや自分を知恵ある者と思うことは優越感です。身分の低い人達は優越感を持てない人達だから、そういう人達と交わり、1つの心になれば、優越感を持つことを何とか防ぐことができる。だから、そうしなさいと勧めています。また私達の梁にはもう1つのことがあります。それは些細なことでもさばいてしまう律法主義です。人を導くためには、時にはさばくべきこともありますが、いつもいつもさばいていたら、人は心を閉ざしてしまいます。だから、どうしてもさばく必要があることはさばいて、それ以外はさばかないで暖かく見守ることが必要です。だから自分の目から梁を取り除くとは、過度にさばく律法主義を取り除くことです。また過度にさばく律法主義は案外、私達の心にある不満から来ていることがあります。不満があるから、その不満を解消しようとして他の人に辛く当たるのです。だから私達の梁を取り除くとは、自分の心を点検することから始まり、神の愛に満たされることです。だから私達の心が神の愛に満たされていることは、非常に大切なことなのです。