使徒20:13-21
“悔い改めて主イエスを信ぜよ” 内田耕治師
パウロはエルサレムに行く途中、エペソに近いミレトに立ち寄ったとき、エペソの長老達を呼び出しました。群れの今後を任せるに当たってパウロには言いたいことがたくさんあったのでそれを説教という形にして彼らに語りました。長老達は、パウロがエペソでどのような歩みをしてきたかよく知っていますから、それを話の導入にして話を始めました。
「謙遜」とは、神の前にへりくだるのはもちろんのこと、これは人に対してへりくだることです。人々はへりくだった人に心を開くからです。「涙をもって」涙が出るのは気持ちがこもるからですが、気持ちがこもるとは熱意があることです。キリストの福音を伝えるとは、みことばを語るだけでなく語る私達の人柄もいっしょになって働く共同作業なのです。
熱意をもってみことばを語れるようになるために、パウロは試練を通されました。迫害によってみことばを語れなくなる試練が来ても、諦めないで機会を探し求めることを通して熱意が養われました。今はパウロの時代のような迫害はなくても私達が熱心に福音を伝えたいと思えば思うほど、やんわりと拒否されていることを感じます。でも諦めないで機会を探し求めることで熱意が養われます。
次に熱意をもって宣教するとは、「益になることは少しもためらわずに教えること」です。「益になること」とは、キリストによる救いと信仰の成長に有益なことです。「少しもためらわず」とは“是非、知ってほしい”という思いをもってあらゆる機会を用いて伝えることです。「人々の前で」とは、まず教会の集会でみことばを伝えることから始まって、人々が集まる所ならどこでもみことばを伝えることです。パウロの場合は初め会堂でみことばを語りましたが、それがダメになるとツラノの講堂を借りて毎日みことばを語りました。また「家々でも」とは家庭集会のような感じがしますが、そうではなくて、集会に来ない人達がいたら、その人達の家に行ってみことばを伝えることです。教会に来ないなら行って伝えたらいいのです。手紙という方法もあります。古代の教父達もルターやカルバンなどの改革者達もたくさんの手紙を残しています。彼らは少しもためらわずに教えようとしたのです。
最後にそこまでして教えるべき益となることとは、まず神に対する悔い改めです。それは神に背を向けて神から離れていることを認めて神に立ち返ること、つまり神への方向転換です。
ただし、神に立ち返るためにはある1つの定められた道があります。その道が御存知のようにイエスキリストです。“神に見捨てられて十字架にかけられたイエスに何ができるのか?自分を救えないイエスが私達を救うのか?”と批判する人達がいますが、イエス様は神に見捨てられて人類の罪を背負い十字架にかけられ陰府にまで下ったからこそ救い主になることができました。私達はイエスキリストを信じるだけで罪の赦しを受け、イエスキリストを通して神に立ち返ることができるのです。だから、私達は神に対する悔い改めだけでなく、主イエスに対する信仰をどうしても伝えるべきこととして熱意をもって伝えるのです。