使徒20:29-38

“楽観せず、みことばに信頼し、与える者となれ”  内田耕治師

 

キリスト信仰とは物事を楽観することではありません。パウロが外からだけでなく内からも異端が入り込み、教会を荒らすという不吉な将来を語って「目を覚ましていなさい」と言ったように、それは難しくても現実や問題をしっかり見つめることです。長老達は監督として羊飼いとしてそれをする必要がありました。今の私達も自分自身や周囲の人達をよく見るべきです。難しい問題を見ていると思い煩いも出てきますが、思い煩いは主にゆだねたらいいのです。主は私達の心配や思い煩いを受け止めて下さるからです。

「私が3年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがた1人1人を訓戒し続けて来たことを、思い出してください。」パウロが思い出せということは、みことばに信頼することです。どうしてか?みことばが私達を育てるからです。「みことばはあなたがたを育成し」育成とは原典では“建て上げる”という意味の言葉です。私達を建物にたとえて、私達の信仰はみことばによって建て上げられると教えています。また私達1人1人の信仰が建て上げられたら、教会も建て上げられます。それから、みことばを信頼することで私達はやがて御国を受け継ぐことが出来ます。パウロも私達も人々に御国を受け継がせることはできないですが、みことばはそれが出来ます。だから、みことばに信頼しなさいと声を大にして言うのです。

パウロはアルバイトをしていましたが、それは自分の生活のためだけでなく弱い人達を助けるためでもありました。

「労苦して弱い者を助けなければならないこと、また主イエスご自身が“受けるよりも与えるほうが幸いである”と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」   20:35

エルサレム教会のやもめに対する毎日の配給を初めとして弱い人達を助ける働きは初代教会では広く行われていたことでした。それ以後の時代でもヨーロッパでカトリック教会は病院や孤児院などを建てて弱い人達への働きをたくさん行いました。日本の戦国時代に来たカトリックの宣教師達も宣教だけでなく弱い人達への働きをよく行いました。ルイス・アルメイダは医者の資格をもちながらインドに渡り、商売をして財産を築いた人ですが人生の目的を見失いました。けれどもイエズス会を通して日本での宣教を見て心を動かされ、再度日本に来て私財をささげて乳児院や病院を作り、医師として働き、日本人医師を養成し、さらに神父となり宣教活動に携わりました。アルメイダの業績は偉大ですが、私達は彼をたたえるよりも私達のできる範囲で弱い人達を助ける働きをすべきです。聖書は私達にできることを教えています。

マタイ25:40「あなたがたが、これらのわたしの兄弟達、しかも最も小さい者達のひとりにしたのは、わたしにしたのです。」

たった1人の助けを必要とする人のために自分にできることをしてあげたら、それはキリストにしたことです。これなら医師でなくても財産がなくてもできることではないでしょうか。弱い者を助ける働きは事業だけでなく、私達1人1人の身近な所にあるのです。