マタイ26:26-47

“散らされる弟子と十字架に進むイエスキリスト”  内田耕治師

 

イエス様は過越の食事の中で私達が毎月守っている聖餐を制定されました。聖餐式でお馴染みの「取って食べなさい。これはわたしの体です、この杯から飲みなさい。これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です」はイエス様が十字架によって救いの道を開かれるという預言です。この時点で弟子達はまだ十字架も十字架の意味も理解していなかったですが、イエス様は救いの道を開くために十字架を目指して進んでいました。

次の「わたしは羊飼いを打つ。――」もイエス様の十字架のことです。さらにイエス様はゲッセマネで非常に悲しみ恐れ怯えて「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。」とか「わが父よ。できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」と祈ることでご自身が十字架に進むことを明らかに示しました。使徒の働き7章のステパノは恐れることなく勇ましく殉教したのに、イエス様はどうしてこんなに恐れ怯えたのか?ステパノは人類の罪を負わなかったですが、イエス様は人類の罪をその身に負ったからです。全人類の罪がどれだれ重く、酷く、悲惨なものか、イエス様の恐れやおののきに表れています。

しかし父なる神のご計画は愛する御子イエスキリストが人類の罪の身代わりとして十字架にかかることでした。だからイエス様は恐れ、おののくだけでなく、「しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください」とか「わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように」とも祈りました。そして3度目の祈りを終えると「―――見なさい。時が来ました。人の子は罪人達の手に渡されます。立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています」と言って十字架への道をしっかり歩みだしました。

次に“散らされた弟子”についてお話しします。かつてイエスさまが70人の弟子達を伝道旅行に遣わしたことがあったように、弟子は初めもっとたくさんいました。けれども、どんどん脱落する人達が現われて最終的に12人になり、またユダが裏切ったので11人になりました。そして最終的にその11人が散らされることになりました。

「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散らされる。」その11人は脱落することなく最後まで弟子としてイエス様につき従って来ましたが、もうすぐ自分が打たれたら途端に彼らも臆病風を吹かせて自分を見捨ててバラバラになってしまうとイエス様は預言しました。これは、これまで従ってきた彼らにとってショッキングなことなのでペテロは反発して「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません」と啖呵(たんか)を切りました。

でも、イエス様は「――あなたは鶏が鳴く前に3度わたしを知らないと言います」つまりペテロの裏切りを預言し、ペテロは「たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません」と死ぬ覚悟を示し、他の弟子達も皆イエス様とともに死ぬ覚悟を示しました。けれども、その後の箇所を読んでいくと、次々に彼らは不甲斐ない姿を露呈しました。まずイエス様が必死に祈っていたとき、彼らは居眠りをしてイエス様から「1時間でも、わたしとともに目を覚ましていられなかったのですか。誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。――」と注意され、また居眠りをして「まだ眠って休んでいるのですか」と言われました。口先では“死ぬ覚悟だ”と言っても、実際、彼らの体と心にその覚悟はなかったのでイエス様の思いや苦しみは他人事でした。

さらにイエス様が逮捕された時に結局、彼らはみんな臆病風を吹かせてイエス様を見捨てて逃げてしまいました。けれども、イエス様はそうなることを初めから見抜いていたので「わたしは羊飼いを打つ。すると羊の群れは散らされる」と預言したのです。

ところで、弟子達がやがてキリストの福音を宣べ伝える使徒として用いられるためには彼らが散らされることは必要なことでした。もし彼らが勇敢にイエス様を守ろうとしたら、どうなったか? 武器を持った大勢の群衆に対してたった11人では多勢に無勢でとてもイエス様を守り切ることが出来ません。大した武器はなかったですから、彼ら自身が命を落とす危険性が大でした。そして彼らがあの時死んでしまえば、主の復活後、再び立ち上がって福音を宣べ伝えることは出来ません。イエス様を見捨てて逃げたからこそ、彼らの将来が確保されました。彼らが逃げたことは神のご計画でした。さらに彼らが散らされた後に主のご計画がありました、イエス様が引用したゼカリヤ13章の「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散らされる」にはその後があります。「羊の群れが散らされる」の後に「わたしは、この手を小さい者達に向ける」というところがあります。「小さい者達」とは「散らされた羊の群れ」のことです。

イエス様はゼカリヤ13章のこのみことばを語るとき、弟子達が散らされた後のことも含めて語られました。すなわち散らされた弟子達は“もうお終い”ではなく、イエス様は散らされる彼らを見捨てないで、後で手を差し伸べて教え導き、再び立ち上がらせることを考えていたのです。彼らを選んだイエス様は、見捨てられても、彼らを見捨てないのです。

ところで主は弟子達と同じように私達を選んで下さいました。だから私達が主を捨てることがあっても、主は私達を見捨てることはありません。私達も弟子達と同じように臆病風を吹かせて主を捨てたり、この世の誘いや思い煩いや忙しさで紛らわされて主から離れてしまうことがあります。けれども、主はそんな私達をも見捨てることはありません。主は今、ダメな私達について、ダメな所が整えられて用いられる将来を見ておられます。だから主は見捨てることがありません。

どうしてか? それは弟子達の場合と同じように主が私達を通して、あるいは私達によってそのご計画を成し遂げようとしておられるからです。ある人は“主を捨てた自分を、主も忘れただろう?”と言うかもしれません。けれども、主はそういう人を忘れていないのです。そういう人が主に立ち返り、彼にこそ出来ることを用意して待っているのです。以上のことは、主を捨てて離れて行った人に是非聞かせたいメッセージです。残念ながら、そういう人達は教会に来ていないので聞かせることは出来ませんが、私達はこのメッセージを心に留めて今日から始める受難週を1日1日歩んで行きましょう。