マタイ7:13-14
「なぜ狭い門はいのちに至る門なのか」 内田耕治師
「狭い門から入りなさい」とはイエスキリストを信じることだ。神は資格や条件を課すことなく、どんな人でも受け入れて下さるからキリスト信仰はその意味では広い門だが、現実的にはその門は狭く、その道は細い。どうしてか?私達のうちに神に自分を任せることがなかなかできない不信仰の性質があるからだ。「“立ち返って落ち着いていれば、あなたがたは救われ、静かにして信頼すれば、あなたがたは力を得る。”しかし、あなたがたはこれを望まなかった」は私達の不信仰の性質を上手く表わす。だから、なかなかキリストを信じることが出来ず、キリストを信じないから神に任せるべきことを任せないで自分で何とかしようとする。天国までそうしてしまう。“地獄の沙汰も金次第”はその例だ。けれども、そんな私達に神から遣わされた聖霊が働くからキリストを信じることができ神に自分を任せることができるようになる。
「狭い門から入り、細い道を歩む」ことは私達の生き方だ。具体的に言うとイエスの御名で祈り続け、聖書を読み続け、礼拝を守り続けることである。その生き方は世の人々と対照的だ。日本なら子が生まれて宮参り、結婚式はキリスト教式、葬儀は仏式と宗教はその時々に着るファッションのようなもの、教えに関心はなく、信仰もない。けれども私達は、生涯かけて守るべきイエスキリストという真理がある。だから私達はだれが何と言おうと脇目も振らずにキリストの道を歩み続ける。ただし、それは信仰に関することだけだ。「愛は寛容であり親切である」私達は寛容さを持つように心がけ、いろんな人達と関わり、違いを感じても「ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました」とパウロが言うように人々に近づいて何とか良い関係を築こうとする。また私達はこの世のいろんな思想や情報や芸術や文化に触れてそれなりにこの世の知識と教養がある。狭い門をくぐり細い道を歩んでも心が狭いわけではない。
イエスキリストだけが、いのちに至る門であり道であるという私達の信仰が、攻撃を受けることもある。“イエス様だけが救いの道だなんて独善的だ、仏様もあるではないか”と批判する人達がいる。表立って言わなくても心でそう思っている人達は案外いる。けれども、たとえそういう批判を受けたとしてもくじけないで批判に耐えて“イエス様だけが–”と言い続けることが私達の戦いだ。
その戦いはまず礼拝を守り続けることから始まる。人々は日曜日を自分の好きなように使うが、私達はその日を神様にささげて礼拝する。人々は“どうして毎週飽きもせず礼拝するのか?どこかに遊びに行ったら楽しいのに”と思う。またほとんどの日本人には定期的に宗教行事をする習慣がない。だから毎週守る礼拝こそが狭い門をくぐり細い道を歩んでいることを証しするものとなる。そして人々が私達の礼拝の姿勢を見て初めは“飽きもせず続ける変わった人達だ”と見ていても、そのうちに“飽きもせず続けるからには何か大事なものがあるのだろう?”と思いだすなら、シメタものだ。でも、たとえそうならなくても、だれが何と言おうとも脇目も振らずに愚直に毎週礼拝を守り続けることが、私達にとって狭い門から入り細い道を歩み続けることなのです。