ルカ7:1-10
“イスラエル人にまさる信仰の百人隊長”
当時ユダヤの社会はローマ帝国に支配され、ローマ軍が駐留していたが、ローマの支配にユダヤ人は反発していた。百人隊長はローマの支配を代表する存在だから普通なら人々は憎しみの目を向けるはずだ。またユダヤ人は自分達を神に選ばれた民として誇り高く、ローマ人を始めとした異邦人を神に見捨てられた民として見下げた。当然、普通ならユダヤ人達とローマ軍の百人隊長の間には難しい関係があったはずだが、この百人隊長にはそれが全く見られない。なぜか?それは彼がユダヤ教に救いを求めた者だったからだ。ユダヤ教はもともとはユダヤ人だけの宗教だったが、その門は少しだけ異邦人にも開かれ、異邦人で求道者になる者が現れた。新約聖書には異邦人でありながらユダヤ教に救いを求める人達が出て来る。その人達を「神を恐れる人」と言う。この百人隊長もその1人である。彼は神があらゆる民の中からイスラエル人を選んで、みことばを委ね、神への信仰を受け継がせ、神がイスラエル人を通してあらゆる民を祝福することを信じた。だから彼自身はへりくだりながら選民ユダヤ人を敬い、愛し、彼らからみことばを学び、感謝にあふれて会堂のために多額の献金をした。ユダヤ人の長老達は彼の熱心さを理解し、彼を信頼した。
百人隊長は病気で死にかけていたしもべをイエス様なら癒すことが出来ると信じ、ユダヤ人の長老達に取り次ぎを依頼し、長老達は快く引き受けた。イエス様と長老達は来ようとしていたが、彼は来ていただくことではなく、主のみことばを求めた。「主よ、わざわざ、ご足労くださるには及びません。あなた様を、私のような者の家の屋根の下にお入れする資格はありませんので。ですから、私自身があなた様のもとに伺うのも、ふさわしいと思いませんでした。ただ、おことばを下さい」ずいぶんへりくだった言い方だが、大事な点はみことばを求めたことだ。彼は“みことばには権威がある、その権威によってしもべは必ず癒やされる”と信じた。彼はその信仰を軍隊の上下関係によって説明した。彼は上司から与えられたことばには権威があると考えたので、ただちにその権威に従い、その通りに行うし、彼の部下たちも、上に立つ彼のことばの権威に従い、言われた通りにすぐ行う。とすればイエス様のみことばはもっと大きな権威があるから、おことば通りに物事はなると信じたのである。
その説明を聞いてイエス様は非常に驚き「あなたがたに言いますが、わたしはイスラエルのうちでも、これほどの信仰を見たことがありません。」と言われた。信仰はみことばを信じることから始まり、みことばを信じることで保たれ、みことばを信じることで完成する。「見ないで信じる人達は幸いです」彼はイエス様を見なくてもみことばにしっかり立うとしたから主は彼の信仰をほめたたえた。ところで「イスラエルのうちでも」という言い方には、異邦人でもこんなに素晴らしい信仰を持てるのだから“あなたがたもできる。信仰を持ちなさい”というイスラエル人への励ましがある。信仰を失ったとしてもイエス様はイスラエル人を見捨てることはない。その信仰を回復させることが使命だから。また“あなたがたも信仰を持ちなさい”の励ましは,2000年前のイスラエル人だけでなく、今の私達にも与えられている。だれでも心がみことばから離れてしまうことがある。そうなると、だれでも信仰があやふやになり迷える羊になる。でも、もしそうなったら「ただ、おことばを下さい」と言いみことばに立った百人隊長の信仰を見直そう。