礼拝説教の要旨・2025年12月28日・マタイ2:1-18
“涙と嘆きを喜びに変えるキリスト”
生まれたユダヤ人の王を礼拝するために星に導かれて東方の博士達がエルサレムに来て「王はどこにおられますか」と言った。その時、王だったヘロデは猜疑心が強く自分の王位を脅かす者が現れたと思い、その王がどこにいるかを祭司長や律法学者に問い、ミカ書からユダのベツレヘムだと分かると、博士達を遣わし、その居場所を探させて殺すことを考えた。
博士達はベツレヘムに向かい、星に導かれて幼子がいる家を見つけた。彼らは母マリアとともにいる幼子を礼拝し、黄金、乳香、没薬をささげた。夢で主の使いがヘロデの所に戻らないよう命じたので博士達は別の道を通って国に帰った。一方、ヨセフには主の使いが夢を通してヘロデが幼子の命を狙っているからエジプトに逃げよと告げ、ヨセフはそれに従った。一方、ヘロデはエルサレムで博士達を待っていたが、彼らに騙されたことに気づいて激怒し、家来達を送り、ベツレヘムとその周辺の2歳以下の男の子を虐殺した。
たくさんの男の子達は幼子イエスの代わりに犠牲になった。“なぜ、うちの子は殺されなくてはならないのか?”親達の嘆き、悲しみ、怒りは「ラマで声が聞こえる。むせび泣きと嘆きが。ラケルが泣いている。その子らのゆえに。慰めを拒んでいる。子らがもういないからだ(エレミヤ31:18)」がよく表している。何の罪もない幼子達の死の原因はヘロデの罪にある。猜疑心でそこまでする人は珍しい。ところで自分には何の罪もないのにヘロデの罪のゆえに殺された幼子達は、あるお方を思い出させてくれる。そのお方とはイエスキリストである。イエス様は大人になって時が来たとき、人類の罪のゆえに十字架にかけられ殺された。だからエレミヤ31:18は幼子達を殺された親達の嘆きと悲しみと怒りを表すとともに、やがて十字架で殺されるイエス様をあらかじめ表す。イエス様は十字架で死ぬことで私達に救いをもたらす。エレミヤ31:18だけを読むと、嘆きと悲しみと怒りだけが見える。だが、エレミヤ31章全体を読むと、全く違い、祝福や恵みや喜びが溢れるほど見えてくる。
エレミヤ31章を新約聖書の光で読むと、異邦人である私達はかつて祝福から除外された者だったが、イエスキリストを信じることで霊的なイスラエル人となり、イスラエル人に約束された祝福は私達にも与えられる。31:3「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した」永遠の愛とは何か?神の御子キリストが十字架にかかることで表された愛だ。その愛によって永遠のいのちが与えられる。31:4-5「おとめイスラエルよ。再びわたしはあなたを建て直し、あなたは建て直される」それは私達の生き方が変わることだ。神の前に罪を認め、イエス様を信じることで私達の生き方は変わる。イエス様を信じる前は、何事も自分中心で生きるとか、この世の流れが中心で自分は振り回される生き方をしていたが、イエス様を信じることで神を中心にして神のみこころに従う生き方に変わる。31:6-7「主よ、あなたの民を救ってください。イスラエルの残りの者を」まだイエス様を知らなくて救われていない人達を救ってくださいと私達が祈り、福音を伝えるようになることである。31:8「わたしは彼らを北の国から連れ出し、地の果てから彼らを集める。―彼らは大集団をなして、ここに帰る」これは世の終わりの御国の完成だ。私達が待ち望む希望の時である。
