礼拝説教の要旨・2025年3月16日ヨハネ13:1-20
“イエスキリストがあなたの足を洗います”
過越の祭りの前:イエス様と弟子達はエルサレムに来ていた。他のイスラエル人のように過越の祭りに参加して出エジプトをお祝いするためではなく主ご自身が神の子羊として十字架にかかるために。「ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った‘見よ、世の罪を取り除く神の子羊’」
イエス様とは本来だれか?:イエス様は本来、神のもとにおられ、神から遣わされ、なすべきことを終えたら、神のもとに帰るお方。「わたしはある」とは神の名前。参照、出エジプト3章。「ある」とは永遠に存在すること。イエス様は永遠の神であり、人となられた神である。その時、主はもう少しで父なる神のもとに戻ろうとしていた。
夕食はお別れの時:イエス様はこれまで愛してきた弟子達を最後まで愛された。弟子達の中には愛しにくい者もいた。それは裏切ろうとしていたユダである。主はユダが裏切ろうとしていたことを知っていて不穏な雰囲気が漂っていた。
洗足:イエス様はその愛を弟子達の足を洗うことで表した。それは身分の低いしもべのする仕事だったが互いに愛し合う模範を示すためにそうされた。「主であり、師であるこのわたしがあなたがたの足を洗った。――あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。」
イエス様とペテロのやり取り:ペテロは自分の足を洗おうとするイエス様に驚き、“先生にそんなことをさせるのは申し訳ない”という気持ちで断ったが、イエス様は「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります」と語った。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよい。あなたがたはきよいのですが、皆がきよいわけではありません。」
足の汚れとは罪:イエス様が弟子達の足を洗うとはイエス様が弟子達の罪を取り除くことを表す。イエス様が罪を取り除いた人達は神の前にきよく、イエス様とつながりを持つ。例外的にユダの足を洗っても、きよくならなかったのはユダの心がイエス様からすでに離れていたから。
神の前にきよい者となりイエス様とつながりを持つ者は、イエス様を遣わした父なる神ともつながりを持つ。「わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れる」
イエス様の十字架の予告:私達は自分で自分を神の前にきよい者とすることはできない。イエス様だけがその罪をきれいに洗い流すことが出来る。イエス様が弟子達の足を洗うとは、イエス様が
人類の罪のために十字架にかかる予告。弟子達は主の十字架の後、その意味が分かる。
あなたの足を洗いたい:“わたしがあなたの足を洗うから、いらっしゃい!”とイエス様は招いている。その招きを遠慮することは、イエス様や神を悲しませ、自分を滅ぼすことである。残念なことだが、遠慮する者がいる。イエス様が足を洗って下さることを遠慮せず進んで受けるべきだ。
すでに足を洗ってもらった人達は自分のために主が尊い血を流した凄い恵みを忘れないように。