礼拝説教の要旨・2025年3月2日・黙示録2:1-7
“どこから落ちたか思い起こせ”

黙示録の7つの教会はそれぞれ立派に戦ってきた教会だが、それぞれに信仰の綻びもあった。
エペソ教会の綻びとは何かを考えよう。
エペソ教会はパウロの開拓から始まり、テモテに引き継がれ、その後、ヨハネも関わるようになった。ドミティアヌス帝の迫害のときにはしばらくパトモス島に流されていたこともあったが。ヨハネはエペソを中心にして他の6つの教会も見ていたから7つの教会へのメッセージを書けた。

2:1「エペソにある教会の御使いに書き送れ。右手に7つの星を握る方、7つの金の燭台の間を歩く方が、こう言われる。」これはキリストのメッセージである。
2:2-3「わたしは、あなたの行い、あなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが悪者達に我慢がならず、使徒と自称しているが実はそうでない者達を試して、彼らを偽り者だと見抜いた」
使徒と自称する者とは異端的な巡回伝道者。エペソ教会は彼らが聖書に反する教えを語る偽り者であることを見抜いて彼らをさばいた。本来、さばくことはしたくないことだが、エペソ教会は怯むことなく彼らを排除することが出来た。そのことをキリストは誉めている。
またペルガモンの教会にはニコライ派の人達(参照2:14-15)がいた。彼らはキリスト者でありながらある偶像を頑なに守っていた者達と考えられるが、エペソ教会は彼らを憎んだ。そのこともキリストは誉めている。現代も異端の問題があるが、私達は様々な人に対して寛容で心を広くすべきだが、教えに対しては寛容ではなく、真理を聖書によって確かめ、異端的な教えを排除すべきだ。

ところで、キリストはエペソ教会を誉めるだけなく2:4「あなたには責めるベきところがある。あなたは初めの愛から離れてしまった」と批判もする。初めの愛とはキリストが罪人である私達のためにいのちを捨てて下さった神の愛であり、その愛を他の人達にも分け与えていくことだ。「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」けれども真理を守るためにやたらと警戒心を持ち、間違った教えに目を光らせ、排除しようとするうちに教会がさばくところとなり、キリストを中心にした愛の交わりを失うことがある。それが信仰の綻びだが、何とか縫い直して初めの愛を回復し、愛の交わりを築き直す必要がある。そのために、

2:5「どこから落ちたかを思い起こし、悔い改め初めの行いをしなさい」なのである。それは愛の交わりを失ったことに気づくことだ。気づけば、綻びを縫い直すことが出来るが、気づかなければ、それが出来ないからだ。
2:7「耳のある者は、――聞きなさい」聞く聞かないはあなたの自由だが、大切なことだから是非、聞きなさいと勧めている。その勧めはいい加減にはできない。なぜなら2:5「そうせず、悔い改めないなら、――あなたの燭台をその場所から取り除く」燭台とは教会。つまり、どこから落ちたのか思い起こさなければ、自分達は教会と思っていても教会ではなくなるからだ。
2:7「勝利を得る者」愛の交わりを失ったことに気づき、悔い改めて初めの行いをする者は勝利を得る者となれる。勝利とは、いのちの木から食べることを許されることだ。創世記3章を参照。
それは難解で解説できないが、素晴らしい祝福が与えられることである。