礼拝説教の要旨・2025年3月23日ヨハネ13:10-35
“目を覚ませと主はユダに語るが、時は夜だった”
ユダの盗みはエスカレート。ついにイエス様を引き渡してお金を得ることを祭司長達と相談。ユダはイエス様を引き渡す機会をうかがい、最後の夕食ではユダが裏切ることは避けられない状況。
イエス様は1人が裏切ることをアナウンス。弟子達はビックリしたが、会計のユダを信頼していたのでパン切れを受け取り、出て行ったユダがまさか裏切るとは思わなかった。
31-32節「神が、人の子によって栄光をお受けになった」栄光とは十字架。主の十字架によって神のご計画は成就し、罪から救う唯一の道が定められた。物事を短絡的に考えてユダの裏切りでイエス様は十字架にかけられたからユダは神のご計画に貢献したと言う人がいるが、それは間違いだ。
ユダはお金に目が眩んで主であり師であるイエス様を売り渡した罪人。彼の行いを正当化することはできない。
ヨハネ伝はそんなユダを目覚めさせ、何とか思い直すように最後まで努力するイエス様を描く。
第二テモテ2章「反対する人達を柔和に教え導きなさい。―――悪魔に捕らえられて思いのままにされている人々でも、目を覚まして、その罠を逃れるかもしれません。」
イエス様はマタイ18章の「2人だけのところで指摘しなさい」に従う。他の弟子達もいたが、彼らは分からずユダだけが分かるように主は彼の罪を指摘。主とユダの間には心理戦が繰り広げられた。
10∸11節「あなたがたはきよいのですが、皆がきよいわけではありません」ユダは“主は自分の裏切りに気づいている”と思ったのではないか。
18節「わたしのパンを食べている者が、わたしに向かって、かかとを上げます」主はユダもよく知る詩篇41:9を引用して“あなたはダビデの友のように裏切ろうとしている”と気づかせた。
19節「‘わたしはある’であることを、あなたがたが信じるため」「わたしはある」とは神のお名前。参照、出エジプト3章。同じことを言うイエス様も神。
20節「わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れる」神であるイエス様を受け入れないとはイエス様をこの世に遣わした神を受け入れないこと。神に選ばれたユダヤ人が、神を受け入れなければユダヤ人はユダヤ人でなくなると警告。だが、ユダはイエス様を受け入れない。
これまでイエス様は冷静沈着に会話を進めて来たが、ユダの裏切りが避けられなくなると、心が大きく動揺。それはユダが滅びの道を突っ走ることへの深い嘆きと悲しみ。パン切れを浸してユダに与えると、サタンが彼に入り、夕食の交わりから出て行く。「夜」は象徴的にサタンの支配を表す。
ルカ伝15章の1匹の迷える羊のたとえ話では、羊飼いはその1匹を捜し出して連れ戻すことができたが、迷い出たユダを取り戻すためにイエス様は努力したが、結局、取り戻すことができなかった。だが、大切なことはイエス様がユダを取り戻すために努力を惜しまなかったことだ。その努力とは愛である。その愛を持つことによって私達はイエス様の弟子と認められる。
35節「互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります」