礼拝説教の要旨・2025年3月30日・ヨハネ18:1-11

“主の御名に圧倒される主を捕らえる人々”

イエス様がペテロに「あなたは三度、わたしを知らないと言う」と予告した後、共観福音書ではゲッセマネの祈りになるが、ヨハネ伝では14章から16章まで長い告別説教があり、17章に“大祭司の祈り”という長い祈りがある。

イエス様の逮捕のとき、共観福音書ではユダがイエス様に口づけするが、ヨハネ伝ではそれがない。

弟子の1人が大祭司のしもべの耳を切り落としたことはすべての福音書にあるが、ヨハネだけがそれがペテロだと書いている。その直後、主はマタイでは「剣を取る者はみな剣で滅びる」語ったが、ヨハネは「父がわたしにくださった杯を飲まずにいられようか」語った

またヨハネ伝ではペテロ以外の弟子達の存在感が小さいが、代わりに逮捕する人達の存在感がある。

彼らはローマ人とユダヤ人だった。彼らがイエス様を捕らえるとき不思議な現象が起こった。

イエス様が「だれを捜しているのか」と尋ね、彼らが「ナザレのイエスを」と言うと

イエス様は「わたしはそれだ」と答え、その言葉の圧倒的な力によって彼らは後ずさりして倒れた。

それは「わたしはある」と同じ、ギリシャ語は「エゴ エイミ」英語は「アイ アム」主の御名だ。

これは、人として来られたイエスキリストが実は永遠の神であることを表す出来事

次にイエス様はご自分の弟子達について語る。8節「わたしを捜しているなら、この人たちは去らせなさい」その解説が9節「あなたが下さった者のうち、わたしは1人も失わなかった」このように言うと、イスカリオテのユダのことが問題になる。ユダも神から任された大切な1人ではないか?

13章でイエス様は最後の最後までユダが目覚めて裏切りを思い直すよう努力し、この問題に取り組んだ。先週の復習だが、イエス様は他の弟子達がいる中で、ユダだけがわかるように語りかけ、彼が裏切りを思い直すよう努力した。それとなく罪に気づかせるようにし警告した。だが、ユダの心は頑なで警告を受け入れず、裏切りと滅びの道を突き進んだ。

12弟子の1人として選ばれたユダがどうして目覚めて裏切りを思い直すことができなかったのか?

その答えは17章にある。17:12「彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。」

ただし、これは最後の最後までユダが目覚めて思い直すために努力し、十字架さえ忍ばれたイエス様だけが言えることばだ。罪人である私達は決して“あの人は救いの子、この人は滅びの子”などと言えない。それができるのは神だけだ。私達ができるのは、人の救いのために愛の行いをし、みことばを伝え、祈ることだけである。

私達は「滅びの子が滅びました」を前にして、まずへりくだり跪くほかはない。改めて魂を救うことも滅ぼすこともできる神の偉大さを知らされ、神を恐れることを教えられる。

私達、現代人は神を恐れることが足りないのではないか。「わたしはある」という主の御名を聞いただけで圧倒され、後ずさりして地に倒れたユダヤ人には主への恐れがあった。それが私達には欠けている。同じように倒れる必要はないが、主への恐れ必要だ。マタイ10:28「―――むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。」