礼拝説教の要旨・2025年3月9日・黙示録2:8-11
“いのちの冠は最後まで主と共にある者に”
スミルナはローマの皇帝と強い結び付きを作ることによって繁栄を目指した。そのため皇帝礼拝を他の町よりも熱心に行った。ユダヤ戦争と西暦70年のエルサレム陥落で逃げて来たユダヤ人もいた。その頃、キリスト教はユダヤ教とは全く別の宗教だと明らかになり、ユダヤ教はキリスト教と敵対していた。以上が当時の背景である。
2:8「初めであり終わりである方。死んでよみがえられた方」永遠の神であるイエスキリストからスミルナの教会へのメッセージ。
2:9「わたしは、あなたの苦難と貧しさを知っている」スミルナの町は豊かにもかかわらずキリスト者は貧しかった。だが「あなたは富んでいるのだ」と語りかけた。スミルナの教会は3章のラオデキアの教会と全く逆。彼らの豊かさとは何か?ヤコブ2:5「神は、この世の貧しい人達を選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束された御国を受け継ぐ者とされたではありませんか」彼らの豊かさは天の御国という相続財産がある。だから自信を持つよう励ましている。
スミルナの信者はサタンの会衆から試みを受けながら耐えていたことにその自信が現れていた。
サタンの会衆とは「ユダヤ人だと自称しているが実はそうでない者達」ユダヤ人ではないみたいだが、彼らは民族的にはユダヤ人だが主をほめたたえる本来のユダヤ人とは全く違うということ。皮肉である。彼らはイエス様を否定し罵っていたが、スミルナの信者達は動じることはなかった。マタイ5:11-12「わたしのために人々があなたがたをののしり――悪口を浴びせるとき――幸い」
2:10「あなたがたの受けようとしている苦しみを、何も恐れることはない」その頃、皇帝礼拝の試練が襲いかかろうとしていた。年1回、神殿で「カイザルは主です」と告白すれば良かったが、キリスト者達は「キリストは私の主です」と告白した。でも、試練が襲って来る可能性がある。
2:10「見よ、悪魔は試すために、あなたがたのうちのだれかを牢の中に投げ込もうとしている。あなたがたは10日の間、苦難に遭う。死に至るまで忠実でありなさい」
皇帝礼拝の試練は下手をすれば、いのちと引き換えに信仰を守らなくてはならないことがあった。歴史を見ると、死に至るまで主に忠実に従って殉教した人がいたし、反対に恐れて忠実に主に従うことが出来なかった人もいた。
けれども、恐れて主に従うことが出来なかった人は“救われない”と書いてないし、そういう人達をさばく言葉もどこにもない。それは今は恐れて主に従うことが出来なくても、いつか出来れば大丈夫であり、出来るようになることを主はいつまでも待っておられるからだ。私達は主の前に恥ずかしいことや情けないことや呆れることばかりだ。恐れや誘惑に負けてばかりである。けれども、主は最後の最後まで私達が主に従う者になることを期待して私達をさばかない。やり直す道を備えておられる。聖書には、死に至るまで主に忠実に従った者に「いのちの冠を与える」ことだけが書いてある。いのちの冠を得ることは信仰の勝利だ。第二の死によって害を受けることはない。
今の時代とは異なる時代意識があるが、私達にとって大切なことは聞く耳を持つことである。