礼拝説教の要旨・2025年4月13日・ヨハネ19:1-16

私たちの救いのために惨めな姿になったイエスキリスト

他の宗教と全く異なりキリスト教は無実の罪で処刑されたイエス様救い主として崇めイエス様が処刑された理由は人として来られたイエス様が実は“神”であることだった。ヨハネ1章は人であるイエス様が「父のふところにおられるひとり子の神だ」と言う。5章「そのためユダヤ人達は、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである」共観福音書でも最高法院は神への冒涜のゆえにイエス様に死刑判決を下した。それらは唯一の目に見えない神だけを神とするユダヤ人の神観から来ている。申命記6:4「聞け、イスラエルよ。主は私たちの神、主は唯一である」からユダヤ人はイエス様に対して激しく反発し、迫害し、最後に十字架にかけ「私達には律法があります。その律法によれば、この人は死に当たります。自分を神の子としたのですから」

だが、その理由ではローマ法では罪にならないのでユダヤ人はローマに対して謀反を企てるユダヤ人の王という罪した。ルカ23章「この者はわが民を惑わし、カエサルに税金を納めることを禁じ、自分は王キリストだと言っていることが分かりました」それは偽りであり不正だが、結果としてその通りになった総督ピラトはユダヤ人の王といイエス様の罪が偽りであることを見抜いていたのでイエス様を釈放する努力をした。「あの人には何の罪も見出せないことが、おまえたちに分かるだろう」茨の冠と紫の衣を着たイエス様を連れて来「見よ、この人だ」と“こんな惨めな奴がユダヤ人の王ではない“と思わせようとしだが、神を冒涜したと激しくイエス様を非難するユダヤ人に対して全く無力彼らにイエス様を赦す心はまったく芽生えず、かえって「十字架にかけろ」声は強くなるばかり。ピラトは負け彼らの声に従う。「この人を釈放するのなら、あなたはカエサルの友ではありません。自分を王とする者はみな、カエサルに背いています」彼らはイエスを何とかローマの権威によって十字架にかけるために皇帝への忠誠を装う。ピラトは彼らが言うこと嘘だと分かったが皇帝のことを持ち出されると何も言えないイエス様を釈放するために努力したが結局イエス様は十字架にかけられる。だが、それが神のみこころだった

の中でイエス様は静かに十字架に向かい、神のみこころに従われた。ピラトイエス様に「私に話さないのか。私にはあなたを釈放する権威があり、十字架につける権威もあることを知らないのか」と、イエス様に跪いて命乞いをすることを求めた。だが、イエス様は「上から与えられていなければ、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。――と、命乞いする気はまったくなくて冒涜罪で死刑になることを神のみこころとして受け入れてい恐れることなく、たじろぐことなく静かに十字架に目を向けていた。それは神のご計画を実現するため。神のご計画と罪のない神の子が罪ある人々のために罪ある者となることによって人々神の前に義とすることだ

「神は、罪を知らない方を私達のために罪とされました。それは、私達がこの方にあって神の義となるためです」2コリント5:21

「罪を知らない方」とは神であり人であるイエス様。「その方は私達のために罪とされた」とは本来、罪のないイエス様が冒涜罪で十字架にかけられたこと。でもそうなることによって罪ある私達は、罪が取り除かれて神の前で義と認められ受難週にこんな歩みをした主を覚えよう。