礼拝説教の要旨・2025年4月27日・ヨハネ20:19-31、ローマ12:2
“見ないでキリストを信じる者は幸い”
ユダヤ人を恐れて家に閉じこもる弟子達にイエス様が現れ「平安があなたがたにあるように」と言い、傷のある手と脇腹を見せて彼らは主の復活を信じた。主は彼らを宣教に遣わそうとしていた。「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします」そのため主は息を吹きかけ「聖霊を受けなさい」と言った。この息は霊的ないのち。聖霊は霊的ないのちを与える。弟子達は聖霊を受けると、人の罪を赦すことができる。「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります」これはルカ24章の「罪の赦しを得させる悔い改め」だれでも神の前に罪ある者だが、聖霊を受けた者は、自分が罪の赦しを受け、人に福音を伝え、悔い改めに導き、罪の赦しを与えることができる。弟子達は宣教のために準備をしていた。

だが、トマスは準備が遅れていた。他の弟子達と一緒にいなかったので復活した主に出会っていない。仲間が「私達は主を見た」と喜んでいたとき、トマスは「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言い張る。彼は生真面目で人に左右されずに自分で物事を確かめて信じ行動する人。だから孤立しやすいが、主は彼を尊重して彼にふさわしいやり方で対応した。8日後に彼の前にイエス様が現れた。主は復活の証拠を求めるトマスに「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と語る。前におられる主はまさしく十字架にかかられた主であることにトマスは気づいて「私の主、私の神よ」とイエス様を崇めた。トマスは主の復活を信じることができ、少し遅れたが宣教のために遣わされる準備ができた。

だが、主は「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人達は幸いです」と語る。彼も他の弟子達も主の手や脇腹の傷跡を見て主の復活を信じたが、そういうものを見ないで信じる人達のほうが幸い。その人達とはだれか?それは主がこの世を去った後、ただみことばを通してイエスキリストを信じた人達だ。だから私達は初期の弟子達よりも幸いである。だが、両者を比較しても意味がない。弟子達は主の復活の証人として選ばれた。だから傷跡がある復活の主に出会う必要があった。だが、私達は見ないで信じるように定められた。だからもし私達がトマスのように「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、――」と言うなら、私達はみことばだけでは満足できず目に見える“しるし”を求める偶像崇拝者となる。

では、どうして主の傷跡を見ることを求めたトマスのことが書いてあるのか?「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じていのちを得るためである」また私達はトマスの真似をできないし真似をしてはならないが、彼のある姿勢は学ぶことができる。それは人の言うことに簡単に同調しないで納得するまで確かめる姿勢だ。その姿勢は私達に当てはめると、神のみこころを納得するまで求めることだ。感情的に盛り上がるとか、この世の風潮に合わせて“これが神のみこころだ”と思い込むと失敗する。「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、――見分ける」この姿勢を私達はトマスから学ぶことができる。