礼拝説教の要旨・2025年5月4日・ヨハネ21:1-14
“復活のイエスと共に食べる朝食”
20章で弟子達は宣教のための準備ができて今にも宣教に行くように見えるが、21章では故郷のガリラヤで元の生活に戻った。ペテロ、トマス、ナタナエル、ゼベダイの子達、2人の弟子、合計7人はティべリア湖(ガリラヤ湖)にいた。主から与えられた宣教命令を忘れてはいなかったが、バックスライド(後戻り)して宣教に進まなかった。主に最後まで従う覚悟を表明していたのにイエス様が逮捕されると簡単に逃げ、ペテロは3度も主を否定し、弟子達みなが挫折を感じていた。マリアからの主の復活の知らせも信じられず、宣教のビジョンはありながら、そのビジョンと彼らの信仰の現実の間には大きなギャップがあり、そのビジョンは非常に遠い所に在る物に感じ、宣教に進む気になれなかった。
ガリラヤに戻ると食べるために稼ぐ必要があり、彼らは漁を始めた。ベテラン漁師のペテロが「私は漁に行く」と言うと他の6人も「私達も一緒に行く」と言い、漁を始めたが、その夜、何も捕れなかった。ルカ5章でペテロが漁をした時と似ている。ルカではイエス様が「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい」と言った時、ペテロは徹夜で漁をしたが、何も捕れなかったので本気にしなかったが主の顔を立てるために「でも、おことばですので」と網を下ろしたら予想外に沢山の魚が捕れ、網が破れそう。別の舟に助けてもらうと両方とも沈みそう。ペテロは申し訳なく思い「私から離れてください。私は罪深い人間です」と言った。初めはまったく捕れなかったのに主の指示でたくさん捕れたことは似ている。
だが、大きな違いが幾つもある。ルカ5章ではペテロと主の間に隔たりがあるが、ヨハネ21章ではペテロは「主だ」と聞くとすぐに上着をまとい、湖に飛び込んで主の所に行った。ペテロと主の間に隔たりがない。ルカでは2艘とも沈みそうになったが、その後のことは何も書いてない。だが、ヨハネではペテロと弟子達が魚を岸に引き上げるとイエス様が岸で炭火を起こして魚やパンを置いて朝食の用意をしていた。捕った153匹からも何匹か用いた。バックスライドしていた彼らを再び宣教に向かわせるために、主は彼らを戒めないでただ朝食を共に食べた。それは弟子達を再び宣教に向かわせるキッカケとなった。「弟子達は、主であることを知っていたので、だれも“あなたはどなたですか”とあえて尋ねなかった。」キッカケとはイエス様と一緒であるという感覚だ。後ろ向きの彼らの心は前向きになった。
パンと魚の意味も考えよう。「わたしはいのちのパンです」「だれでも、わたしが与えるパンを食べるなら永遠に生きます」パンとは永遠のいのちを与えるイエス様を表す。パンを食べるとは、主を信じて永遠のいのちを受けることだ。魚というとイスクースの魚のマークを思い出すが、ここの魚は復活の主が与えるいのちを表す。この魚を食べるとは、復活の主からいのちを受けること、つまり魚はパンと同じ意味だ。153匹の意味は何か?聖書をラテン語に訳したヒエロニムスの解釈を紹介する。153は当時知られていた魚の全種類。それは全人類に福音を伝えることと解釈する。“なるほど”と思わせる。全人類に主のパンと魚を与える。これが宣教だ。弟子達はそのために遣わされた。私達も主から遣わされている。