礼拝説教の要旨・2026年1月18日・黙示録11:14-19
“天から来た報いと滅びの御告げ”
普段、何事もなく平和な生活をする私達に、黙示録はその平和を打ち破るようなことを語る。しかも、それは「すぐに起こるべきこと」である。私達とこの世の人々では大切にするものが全く異なるが、今の所、私達はこの世の人々と仲良くし出来るだけ福音を伝えようとする。しかし、この世が私達を迫害し、私達が患難に陥る時がもうすぐ来ようとしている。その時、私達は何も出来なくなるが、神は私達に代わって証しし、みことばを大胆に語る人達を送る。それが2人の証人だ。彼らはこの世がどんなに敵対し、害を加えても、それを跳ね除ける権威を持つ。だから世の人々は彼らに反感をつのらせ、何とか排除したいと願うができない。でも、語るべきことを語り終える時、底知れぬ所から上る獣によって2人は殺される。世の人々は大喜び。でも、3日半の後、彼らは生き返り、天に上り、大きな地震が起こり、都の10分の1が倒れ、7000人が死に、残った世の人々は恐れて天の神に栄光を帰し、私達キリスト者はこの2人の証人を大いに喜び、感謝し、主の御名をあがめる。
その後、天から御告げが与えられる。「この世の王国は,私達の主と、そのキリストのものとなった。――」この世の王国はサタンの支配下にあり、神に敵対していた。だが、キリストの十字架はサタンの支配から人々や国を解放し、世の終わりに王国は完全に神の支配下に入る。「あなたは偉大な力を働かせて、王となられました」天ではそのことを24人の長老達が喜んで主を賛美する。「諸国の民は怒りました」世の人々は、神の聖さや正しさをズバリ聞かされ、罪がもろに示され、反発して怒る。2人の証人が殺されて大喜びしたではないか。では「あなたの御怒りが来ました」とは何か?諸国の民の怒りとは全く違う。それは世の終わりの神のさばきだ。すべての人がそのさばきを受けなくてはならない。そのさばきはいつか?「死者がさばかれる時」だ。それはすべての人々が死んだ後、開かれる神の法廷だ。
神がさばきをなさるとき、人間である以上、だれでもさばかれてしまう罪がある。“私は善良な人間だ!立派な人間だ!神の前に出たらお誉めの言葉をいただける”と考えるならば、その高慢な心が罪としてさばかれる。神の基準は、人間の基準よりも遥かに高い。神の前にさばかれることがない人は1人もいない。すべての人が罪ある者としてさばかれ滅ぼされる。しかし、私達の罪を代わりに背負ってくださるお方がいる。神の御子キリストだ。キリストが私達の罪のために十字架にかかってくださったゆえに、私達は滅びを免れて救いを受けることができる。「死者がさばかれる時、あなたのしもべである預言者達と聖徒達、御名を恐れる者達、小さい者にも大きい者にも報いが与えられる」「報い」とは世の終わりのさばきから救われ、永遠のいのちが与えられることだ。この「報い」を1人でも多くの人達に知らせ、それを得させるために黙示録は書かれた。私達は何事もなくこの世的な必要が満たされて平和な日々が続くと、救いの恵みを忘れがちになる。日々の生活で忙殺され、この世的な関心ばかり求めると、滅びに向かう人々の存在に無関心になり、霊的な眠りに陥り、魂への愛や情熱が薄れる。だから私達を目覚めさせ、私達を救う神の愛を知り、魂への重荷を持つためにすぐにでも起こる黙示録は書かれた。平和に埋没する眠りから目を覚まそう。
