礼拝説の要旨・202621日・ルカ9:4―48

“キリストは言う、一番小さい者が一番偉と”

――人の子は、人々の手に渡されようとしています」受難を仄めかすことば弟子達は不吉に思い、主に尋ねるのを恐れ主は彼らの恐れの背後にあるものを見抜いていた。それは彼らの野望だった。大国に支配され続ける歴史でユダヤ人は自分達を解放してイスラエルの国を再興し、その栄光を取り戻すメシヤを待ち望んでいた。ユダヤ人である弟子達も同様に待ち望んでいたが、彼らは主イエスをメシヤと信じ、主が国を再興したとき自分達が高い地位を得野望を抱いていた。だから、もし主が殺されたらの野望は水の泡となから恐れその野望彼らの間にライバル関係がみだしヤコブとヨハネがイエスあなたが栄光をお受けになったとき私達のうち1人をあなたの右に、もう1人をあなたの左に座るようにしてほしい」と願った。主は何も分からない彼らに呆れたが、これを他の10人が聞いて腹を立てた。弟子達はみな同じ野望を抱いて主のもとに集まり競っていた。その背後には権力闘争があった。「弟子達の間で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった」

けれどもが一番だ」と威張ることは神のみこころに反する。むしろ、これから迫害され、捕らえられ、人々の手に引き渡される主イエスを受け入れることが神のみこころだ。そのことを教えるためには、1人の子供を連れて来てご自分のそばに立たせた。子供は当時、大人に振り回されて言いなりになる弱い存在だったが、主はんな子供をご自身を表す象徴とした。「だれでも、このような子供を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです」そのとき、弟子達は主イエスをメシヤと信じて従っていたが、それは将来、彼らが権力を握っ高い地位につく野望を実現するためだっただから主はそんな彼らにこの弱い子供のように振り回され、捕えられ、十字架の道を歩むわたしを受け入れなさい。そうすれば本当のわたしを受け入れることになる”と言って権力闘争をする弟子達を戒め、彼ら主の十字架という神のご計画を受け入れるよう導いた

十字架の道を歩む主イエスを受け入れる者は、神を受け入れることにな。「だれでもわたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方(父なる神)を受け入れるのです」私達はイエスを信じることによってを遣わした父なる神を信じてい。けれども、その頃弟子達は、がイスラエルの国を再興すること神のご計画と考え、そのご計画成し遂げられること自分達の野望が実現すると信じていた。十字架の道を歩む主イエス考えたことがない意外なこと。そんな主イエスを受け入れることで神を受け入れることになるのも考えたことがない意外なこと。でも、主はそれらを受け入れることを弟子達に静かに求めていた。

「あなたがた皆の中で一番小さい者が、一番偉いのです」弟子達は、だれが一番偉いかという議論をしていが、これがの議論の答え現在この世では大きい者が、偉いという価値観が幅を効かせている。国際情勢ではその価値観に従って、大きい者は好き勝手にやりたい放題をする。小さい者達は“これは間違いだ”と思いながら何も言えない状況

けれども「一番小さい者が、一番偉い」を教会を通して実現することが私達の使命だ。この世の価値観の影響を避けながら、キリストに焦点を合わせてこの使命を大切にしていこう。