礼拝説教の要旨・2026年2月1日・ルカ9:43―48
“キリストは言う、一番小さい者が一番偉いと”
「――人の子は、人々の手に渡されようとしています」受難を仄めかすことばを弟子達は不吉に思い、主に尋ねるのを恐れた。主は彼らの恐れの背後にあるものを見抜いていた。それは彼らの野望だった。大国に支配され続ける歴史でユダヤ人は自分達を解放してイスラエルの国を再興し、その栄光を取り戻すメシヤを待ち望んでいた。ユダヤ人である弟子達も同様に待ち望んでいたが、彼らは主イエスをメシヤと信じ、主が国を再興したとき自分達が高い地位を得る野望を抱いていた。だから、もし主が殺されたらその野望は水の泡となるから恐れた。その野望は彼らの間にライバル関係が生みだした。ヤコブとヨハネが主イエスに「あなたが栄光をお受けになったとき、私達のうち1人をあなたの右に、もう1人をあなたの左に座るようにしてほしい」と願った。主は何も分からない彼らに呆れたが、これを他の10人が聞いて腹を立てた。弟子達はみな同じ野望を抱いて主のもとに集まり競っていた。その背後には権力闘争があった。「弟子達の間で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった」
けれども「私が一番だ」と威張ることは神のみこころに反する。むしろ、これから迫害され、捕らえられ、人々の手に引き渡される主イエスを受け入れることが神のみこころだ。そのことを教えるために主は、1人の子供を連れて来てご自分のそばに立たせた。子供は当時、大人に振り回されて言いなりになる弱い存在だったが、主はそんな子供をご自身を表す象徴とした。「だれでも、このような子供を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです」そのとき、弟子達は主イエスをメシヤと信じて従っていたが、それは将来、彼らが権力を握って高い地位につく野望を実現するためだった。だから主はそんな彼らに“この弱い子供のように振り回され、捕えられ、十字架の道を歩むわたしを受け入れなさい。そうすれば本当のわたしを受け入れることになる”と言って権力闘争をする弟子達を戒め、彼らが主の十字架という神のご計画を受け入れるよう導いた。
十字架の道を歩む主イエスを受け入れる者は、神を受け入れることになる。「だれでもわたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方(父なる神)を受け入れるのです」私達は主イエスを信じることによって主を遣わした父なる神を信じている。けれども、その頃の弟子達は、主がイスラエルの国を再興することを神のご計画と考え、そのご計画が成し遂げられることで自分達の野望が実現すると信じていた。十字架の道を歩む主イエスは考えたことがない意外なこと。そんな主イエスを受け入れることで神を受け入れることになるのも考えたことがない意外なこと。でも、主はそれらを受け入れることを弟子達に静かに求めていた。
「あなたがた皆の中で一番小さい者が、一番偉いのです」弟子達は、だれが一番偉いかという議論をしていたが、これがその議論の答えだ。現在この世では“大きい者が、偉い”という価値観が幅を効かせている。国際情勢ではその価値観に従って、大きい者は好き勝手にやりたい放題をする。小さい者達は“これは間違いだ”と思いながら何も言えない状況だ。
けれども「一番小さい者が、一番偉い」を教会を通して実現することが私達の使命だ。この世の価値観の影響を避けながら、キリストに焦点を合わせてこの使命を大切にしていこう。
