ホームページ・礼拝説教の要旨・2024年10月20日・ローマ9:31-10:4
”キリストに信頼する者は失望しない“
アメリカのペンシルベニアでアーミッシュの人々を見た。ヨーロッパの宗教改革から出て来たアナバプテストやメノナイトは行き過ぎた急進派だったのでカトリックだけでなく他のプロテスタント教会からも迫害された。18世紀に彼らは自由を求めてアメリカに移住しアーミッシュと言われるようになった。彼らは興味深いことに今も移住した当時の生活様式で暮らしている。当時の服装をし、農耕や牧畜で自給自足をし、電気を使わず、馬車に乗る。現代社会でそのあり方を守るために彼らは現代人の私達が変に思うような戒律を持つ。アーミッシュの戒律を厳格に守る姿から昔の律法主義的なイスラエル人の姿が見えてくる。
イスラエル人は律法を厳格に守ることで神に義と認められようとしたが認められなかった。なぜか?「行いによるかのように追い求めた」からだ。口では神を崇めながら、実際は“自分はよくやっている”と自分を誇り、神から離れ、自己中心的になり、他者を顧みなかった。彼らは自分の行いで義を得ようとして「つまずきの石」につまずいた。だが、神はそうなることで本当に義と認められる道を知らせることを計画していた。その計画が「見よ、わたしはシオンにつまずきの石、妨げの岩を置く。この方に信頼する者は失望させられることはない」だ。本当に義と認められる道とは信仰によって義を求めることだ。神のご計画とはイスラエル人にまず律法を与え、彼らが律法の行いによって義を得ようとして躓き、最後に義と認められる道はキリストしかないことに気づき、キリストを信じることだ。「律法が目指すものはキリスト」なのである。
イスラエル人は律法を通してキリストに出会うように定められた最初の人々だったが、そうなったのはパウロを始めとする一部の人達だけで大勢の人々はそうならず、キリストに敵対する者達もいた。だからパウロは次のように祈った。「兄弟たちよ、私の心の願い、彼らのために神にささげる祈りは、彼らの救いです。私は彼らが神に対して熱心であることを証ししますが、その熱心は知識に基づくものではありません。彼らは神の義を知らずに、自らの義を建てようとして、神の義に従わなかったのです。」パウロは律法を忠実に守ろうとするイスラエル人は、神に対して熱心な人々だと敬意を払うが、その熱心さは「知識」に基づいていないと批判。「知識」とはキリストを信じることによって義と認められる、つまり救われるという教えだ。これがパウロの祈りである。
このパウロの祈りと同じような祈りを、私は日本人のためにする必要を覚える。日本人にはイスラエル人とは違う別の律法がある。礼儀正しさ、生真面目さ、正直さ、勤勉さなどの美徳だ。私はあまり意識しないが、外国の人達にはそう見えるようだ。だが、そういう美徳を批判的に考えると、内容はともかく形だけは整えることではないか。その性格は幕府によるキリスト教の大弾圧と仏教の国教化から来ている。日本人は仏教を全く知らなくても形だけは仏教徒のように振舞う。だが、私達はキリスト教的な形だけを整えても救いはない。救いを与えるのはキリストだけだ。内容がないのに形だけを整えることは問題だが、それを嘲る思いを言葉や態度で表すなら人々は心を閉ざす。だから内容はともあれ形だけを整える性格を福音という内容によって変えていただくことを目指しながら、形を整える熱心さには敬意を払うという相反する姿勢が日本宣教の突破口だ。