へブル12:1-3

“イエスから目を離さないで”  内田耕治師

 

「一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。」陸上競技は出来るだけ重荷となる物を着ないで軽装で走るように私達の信仰生活も重荷を捨てて出来るだけ身軽にして歩むことが大事だ。重荷とは思い煩い、人への恐れ、高ぶる思い、人を赦せない思いなど様々だ。そういう罪はまとわりつく性質があり、“もう捨てた”と心に決めても、ほとぼりが冷めると、また出て来る。信仰生活は忍耐して走り続けなくてはならない。忍耐とはただ“我慢”するだけでなくて、成長の希望を持ちながら走り続けることだ。そういう生活をする私達を見守り声援を送る人達がいる。その人達とは11章の大昔にいた信仰の先輩達だ。

ところで信仰の先輩達の他にもう1人大事なお方がいる。そのお方とはイエスキリストだ。イエス様は「信仰の創始者であり完成者」である。時系列に考えると、イエス様は11章の信仰の先輩達の後だが、イエス様がしたことを信仰の先輩達は決してすることができない。たとえばイエス様は処女マリヤが聖霊によって身ごもることによって生まれ、私達と同じ人として生活したが罪を知らないお方だ。けれども信仰の先輩達は私達と同じ生まれ方をし、私達と同じ罪ある者だ。イエス様は私達の罪の身代わりとして進んで十字架にかかり、死んで復活し、私達に信仰による救いの道をもたらした。けれども信仰の先輩達は私達の罪の身代わりにならなかったし私達に信仰による救いの道をもたらしてはいない。

「ご自分の前に置かれた喜び」とは、信仰による救いの道が完成し、その道を通って多くの魂が救われ天国に行き、イエス様が救われた人々を天国で迎えることだ。その喜びのためにイエス様は辱めをものともせずに十字架を忍んでその道を完成した。けれども信仰の先輩達は信仰による救いの道を完成していないし、それを目指したわけでもない。それゆえイエス様だけが信仰の創始者であり完成者と呼ぶにふさわしいお方である。「自分の前に置かれている」は私達にもある。イエス様が自分の前の喜びのために十字架を耐え忍んだのと同じように私達も自分の前に置かれた競走を忍耐をもって走り続ける。イエス様は私達が目指すべき目標だ。けれども、私達はイエス様という目標からともすると目を離してしまう傾向があるから「目を離さないでいなさい」と教えている。

では、何が目を離させるのか?この世の富だ。この世の富は必要なものだから富のために私達は働かなくてはならないが、富の惑わしは結構強くて、本来私達が使うべき富に私達が使われて、富が主人のようになる。そうなると私達の目はイエス様から離れてしまう。またこの世と調子を合わせてしまうことで私達の目はイエス様から離れてしまう。私達はこの世から出て行くのではなく、この世にとどまりながら主に従おうとする。だから時には調子を合わせることも出てくる。けれども信仰のことでは調子を合わせないで、みことばが教えることを貫き通すことが目標だ。信仰の創始者であり完成者であるイエス様から目を離さない一年を歩もう。