ヨハネ18:1-11、17:12

”捕まるキリストが示す威厳” 内田耕治師

 

ヨハネ伝のイエス様の逮捕は共観福音書と比べると独特だ。共観福音書では最後の晩餐、オリーブ山、ゲッセマネの祈り、逮捕と出来事が続くが、ヨハネ伝では地名は暗闇を表すキデロンの谷だけで祈りはなく逮捕だけに焦点を当て詳しく描く。逮捕するため大勢の兵士や下役が来たがイエス様は王様のように堂々とし、逮捕する兵士達は王様を恐れる僕達のようだ。イエス様は逮捕される時、4つのことばを語った。

まず「だれを捜しているのか」普通、逮捕される者がそんなことを言うはずがない。でも、そう言って相手に「ナザレ人イエスを」と言わせ、名乗って自分を捕まえさせようとした。その背後に自分だけ捕まり弟子達を逃がそうとする意図があった。イエス様が「わたしはそれだ」と名乗ると、兵士達は「後ずさりして倒れた」この現象は神の臨在に圧倒されたことを現す、つまりイエス様は神である。

「剣をさやに収めなさい。父が私に下さった杯を飲まずにいられるだろうか」その時ペテロは主を守ろうと血気にはやって剣で大祭司のしもべに切りかかった。武装した兵士達がいたから、もし大乱闘になったら弟子達は殺され、イエス様も十字架にかかる前に殺されたかもしれない。そうなったら元も子もない。だから主は戦いをやめさせ、兵士達に自分を連れて行かせた。

「この人たちを去らせなさい」イエス様は願い通りに自分だけが逮捕されて弟子達全員を守ることができた。「これは“あなたが下さった者たちのうち、わたしは1人も失わなかった”とイエスが言われたことばが成就するためであった」けれども、ユダはどうか?なぜユダは裏切ったのか?その答えは17:12にある。「―–彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。それは聖書が成就するためでした。」

福音書をよく読むと、ユダが悔い改めるようにイエス様が努力した跡が伺える。けれども、結局、彼は父が与えた者ではなかったので滅びた。それが聖書の答えだ。私達に当てはめると、私達は神に選ばれたから救われたのである。信じた当初は分からなくても、聖書を読めば、救われる前に神に選ばれていたから主を信じるように導かれたことに気づく。そうすると、私達は選んでくださった神に感謝し、主を賛美せざるを得ない。私達はだれが選ばれ、だれが選ばれないのか決めることも知ることも許されていない。それは神がなさることだ。そんな私達には自分に関わるすべての人達を神は選んだと思って愛し、その人達のために祈り、とりなし、福音を伝えることが主から託されている。そのような模範を、私達はイエス様に見ることができる。イエス様は早い時点でユダが裏切りそうなことに気づいていたが、そのまま弟子として留め会計係として用いた。彼に対してキツイ警告のことばを語ったが、それはユダの回心を願ってのことだ。主は彼も父が与えた者だと思って最後まで愛したのである。それゆえ、私達もイエス様にならって自分が関わるすべての人が神に選ばれていると思って愛していこう。