マタイ10:24-33、使徒4:19-20

“あなたの髪の毛さえも数える神を恐れよ”   内田耕治師

 

福音書の弟子達は人を恐れて人々の前で主を証しすることができない者だった。ペテロは大祭司の家の中庭までイエス様を追っかけたが、人を恐れて主との関係を3度も否定した。他の弟子達は大祭司の知り合いのヨハネを除けば、みな主を追いかけもせず、ヨハネ伝では主の十字架後、ユダヤ人を恐れて戸に鍵をかけビクビクしていた。けれども、ペンテコステで御霊が注がれると、まったく変えられて人々の前でみことばを大胆に語り出し、逮捕されて議会で尋問されてもたじろぐことなく主の死と復活を語り、主の御名で語ることを禁じられても挫けることがなかった。

そんなに変わったのはよく聖霊が注がれたからだと言われる。確かにそれは言えるが、それだけでなく主の教えたことによって彼らは成長してそう出来るようになったのである。もしあの教えがなかったら聖霊が注がれてもそうはならなかっただろう。今の私達は福音書に描かれた弟子達と同じように人を恐れる弱さがある。残念なことだが日本の強い同調圧力のゆえに隠れキリシタンのような歩みをすることがある。だからイエス様の教えは今の私達にとっても打って付けだ。

まずイエス様を師や主人として従う生き方をすると、ベルゼブル論争でイエス様が嘲られ批判されたように私達もひどい呼び方をされることがある。けれども、たとえそうされてもを恐れるなと教えている。またイエス様は心にある信仰を人前で率直に言い表すように教えている。「人々の前でわたしを認めるなら、わたしも。天におられるわたしの父の前でその人を認めます」けれども人を恐れる弱さはそれを妨げて上手く出来ないことがよくあるが、上手く出来るようになるためには人を恐れる思いを取り除かなくてはならない。

では、どうしたら人を恐れないようになれるのか?神を恐れることだ。使徒の働き4章でペテロとヨハネは議会で主の御名で語ることを禁じられたとき「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが、神の御前に正しいか、判断してください」と脅されながらも神の御前の正しさと求めた。それは神を恐れて人を恐れる弱さから解放されていたからだ。それゆえイエス様は次にどうしたら神を恐れることができるかを教えた。「たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい」私達の天国のいのちは神の御手のうちにある。だから殺人者を恐れる以上に神を恐れなくてはならない。

さらに今、当たり前のように思っているこの世の命も神が握っている。小さな1羽の雀さえ神の許しがなければ地に落ちることはない。雀が生きるか死ぬか神の御手のうちにある。雀よりも遥かに複雑で価値のある人間も同じだ。神はその髪の毛を1本1本数えほど私達を知り尽くし、医学が発達して少しは寿命を延ばせても私達が生きるか死ぬかは神の御手のうちにある。だから神を恐れて心にある信仰を言い表すべきだ。もし私達が人を恐れてそうしないなら「わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います」ということになる。だから証しの機会が来た時、自然にあるいは勇気をもって主への信仰を自分の言葉で言い表そう。