マタイ14:1-13、ルカ23:6-11

“死人の中からよみがえった者”  内田耕治師

 

ヘロデは異母兄弟ピリポの妻ヘロディアを奪って結婚したが、彼らの結婚を不法だと非難した預言者ヨハネは彼らには目の上のたん瘤のような存在になっていた。ヘロデはヨハネを捕えて牢に入れたが、下手に処刑するとヨハネを預言者と認める民衆の反感を買う恐れがあり牢に入れたままにしていた。そんな頃、ヘロデの誕生祝いが行われてそこでへロディアの娘が踊りを披露した。

この娘は前の夫ピリポとの間に生まれた子だが、ヘロデは踊りを喜んで褒美に欲しい物は何でも与えると誓うと、彼女は母に相談し、母は自分達の結婚を非難するヨハネを殺す絶好の機会と思い、娘を唆してヨハネの首を要求するように言わせた。ヘロデは人々の前で誓ったので断れずヨハネの首をはねさせた。彼女は盆に載せたその首を母のところに持って行った。

ヘロデは民衆がどう出るか?心配したが、内心、上手い具合にヨハネを片付けることができたと喜ぶ思いもあった。けれども、その後、イエス様の噂を聞くと「あれはバプテスマのヨハネだ。彼が死人の中からよみがえった」と心のうちによみがえったヨハネを恐れた。それは誤解だが、彼はイエス様を殺そうとした。ヘロデの心によみがえったヨハネは罪を責め続け、彼に平安はなかった。

ところで、ヨハネが殺そうとしたイエス様は、責めることも裁くこともなく、かえって罪を赦して心に平安を与えてくださるお方だ。ヘロデはイエス様をヨハネのよみがえりと誤解して殺そうとしていたから本当のイエス様が分からなかったが、そのうちに彼は誤解から解放されてイエス様はヨハネのよみがえりではないことに気づき、イエス様はどんな者なのか?関心を寄せるようになった。そんなヘロデはその後エルサレムに滞在していたとき、イエス様に出会う機会が与えられた。イエス様がピラトの所で裁判を受けていた時だ。ピラトの尋問の合間に短い時間だが、イエス様に出会い話しかけることができた。あいにく疲労困憊(ひろうこんぱい)したイエス様は彼の質問に答えることができず、祭司長や律法学者が激しくイエス様を訴えるのに合わせて彼もイエス様を侮辱し、からかった。

残念ながらその機会を生かすことはできなかったが、その機会が与えられたこと自体が大事なことだ。その後、ヘロデは悲惨な人生を歩むが、彼が悔い改めて救われたかどうかは分からない。それは神だけが知ることだ。私達にとっては、罪深くスキャンダルに満ちイエス様を侮辱するような彼にも罪の赦しの恵みは開かれていたことが大切だ。

“あまりにも罪深く救いようがない”と私達が思う人達にも、キリストの血による罪の赦しの恵みは開かれている。それが聖書の原則である。その原則の背後には罪人に対する神の愛がある。ひとり子を十字架にかけてでも救おうとする神の愛である。私達はそのような神の愛によって救われ、それを土台にして信仰生活をし、伝道している。自分達が神の愛という土台に立っていることを覚えて歩んでいこう。