エレミヤ42:1—43:7、1コリント1:18

“聞く気のない人々にもみことばを語れ”  内田耕治師

 

ゲダルヤを殺し、民を連れてアンモン人の地に行こうとしたイシュマエルから民を取り戻したヨハナンは、自分が殺してはいないのにバビロンの王が立てた総督ゲダルヤをユダヤ人が殺したとあっては、バビロンは必ずユダヤ人全体に報復する思い込み、エジプトに逃げようとした。バビロンに対する異常な不信感と恐れの故である。でも、確信がなかったのでエレミヤに祈りを要請した。

これまでバビロンの支配下にあることを受け入れながらユダの地にとどまることを語ってきたエレミヤにどうして祈りを要請するのか?疑問だが、おそらくエジプトに行くことを神のみこころだと言って欲しかったようだ。エレミヤは10日間祈り示されたことを語った。それはユダの地にとどまって国を再建すること、バビロンの王を恐れてはならないこと、エジプトに逃げたら剣、飢饉、疫病が追って来て人々は滅びること。つまりエジプト行きに明確にNoを突きつけた。

けれどもヨハナン達は「あなたは偽りを語っている」と批判し、エレミヤを強制的にエジプトに連れて行った。高齢のエレミヤは自分達に簡単に従うと軽く考えたのである。けれども年を取ってもエレミヤは預言者だった。43章の後半や44章はすべてエレミヤがエジプトで語ったみことばだ。内容はユダヤ人はユダの地にとどまるべきこと、エジプトに逃げたら災いが追いかけて来て彼らを滅ぼすこと、偶像を捨てて真の神に立ち返るべきことだ。それに対する反発の声も記されている。

神のご計画はエジプトに逃げたユダヤ人にもみことばを伝えることであり、そのためにエレミヤは高齢でも用いられた。ところでキリストを信じる私達もこの世ではエレミヤと同じような立場にある。私達は唯一真の神とその神が遣わした唯一の救い主キリストを信じて喜んでいる。けれども、この世の人々は、キリストを信じていないし、私達の信仰自体が分からないし公然と批判はしないにしても、キリストを信じて救われることを否定し、私達を冷ややかな目で見ている。私達はエレミヤと同じように自分の信仰を否定する人々に囲まれている。それはキリストを否定する人達にキリストを伝えるためだ。神は私達に教会を与えて、少なくとも週1回礼拝をささげ、キリスト者どうしで交わり、励まし合う時を持つように教えたが、そうする時間は一週間のうち僅かで大半の時間はキリストを知らない人達や否定する人達の間で生活するように神は定めた。それはそういう人達に私達がキリストを伝えるための神のご計画だ。

「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です」これは私達のこの世での立場を描いたみことばだ。この世の信仰のない人達にとって十字架のキリストは何の意味もない。愚かなことだ。けれども、信じる私達にとって十字架のキリストは救いであり希望である。そのキリストによって今は冷ややかな目で見る人達も救われると信じている。機会があればキリストを語りたいと思っている。でも、エレミヤのように拒否されることが多い。そう考えると、エレミヤが非常に近い存在に見えてくる。高齢のエレミヤが反発され拒否されても諦めなかった姿は大きな励ましだ。キリストを伝えることは死に至るまで続く私達の生きがいなのである。