礼拝説教の要旨・2026年10月25日・ルカ11:5-13

“良いものを与えてくれる天の父”

最初の近所の友達からパンを借りるたとえ話はルカだけにある。続く「求めなさい。そうすれば与えられます。――」も、父親は子供に良いものを与えるたとえ話もマタイ7章に同じものがある。ただし最後の所はルカは「聖霊」でマタイは「良いもの」という違いがある。

ある人は旅の友人が来た時、食べさせるものがなかったので真夜中、近所の友人にパンを借りようとした。初めは断られたが、しつこく頼んだらパンを与えてくれた。これは諦めないでしつこく祈り続けるべきことを教える。それとともに真夜中に非常識なお願いをしても対応してくれた気前の良い友人は神を、その友人にパンを求めた人は私達を表す。

「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。―――たたきなさい。―――」

これはそんな神は必ず私達の祈りに応えてくれるから祈り続けることを勧めるみことばだ。神はいつでも私達の必要を何とか“満たそう”と心がけている。私達は神に面倒をかけてばかり、神をガッカリさせることもある。だが、神は恵み深いお方だから私達を見捨てないで私達の必要を満たそうとする。

ただし神は私達にとって良いものだけを与えてくださる。「あなたがたの中で、子供が魚を求めているのに、魚の代わりに蛇を与えるような父親がいるか?(気味悪い蛇を与えるはずがない)卵を求めているのに、サソリを与えるような父親がいるか?(有害なサソリを与えるはずがない)」次に「ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供達には良いものを与えることを知っています」と言う。一般的には悪人でも自分の子供には良いものを与えるという意味だが、イエス様はこれを信仰的な意味で語る。私達はこの社会ではほとんどが普通の人達だが、主は普通の私達を「悪い者」と言う。それは犯罪者ではなく、神の前に罪ある者という意味だ。でも、私達は罪人でありながら自分の子供には良いものを与えようとする。「それならなおのこと」悪い者である私達が自分の子供に良いものを与えるなら、父なる神は、神の子である私達にもっと良いものを与えるはずだ。では、それは何か?

 「天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます」もっと良いものとは聖霊だ。マタイは「良いもの」と言うが、ルカが「聖霊」と言うのはなぜか?考えられることは、ルカの続編の使徒の働きでは2章のペンテコステで弟子達に聖霊が注がれ、そこから宣教が始まり、初代の教会が生まれたが、それは「聖霊を与えてくださる」という約束の成就である。けれども、それだけではない。「天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださる」はもっと広くすべての人々に与えられた約束だ。なぜなら聖霊によって人はイエスキリストを信じることができるからだ。私達が主を信じるのは聖霊の働きによる。自分の意志の力で主を信じるのではないし、だれかに“主を信じろ”と命じられたから信じたのではない。

だから私達も力づくで人を導くことはできない。時々、私達は何とか信じさせてやろうと思ったり、なかなか信じない状況が続き、疲れを覚えることがあるが、そんなとき、父なる神にあの人にもこの人にも聖霊を与えてくださるように祈ることを勧めている。聖霊とはマタイが言う「良いもの」だ。天の父が良いものを与えることを信じて諦めないで祈り続けよう。