礼拝説教の要旨・2026年2月22日・ルカ9:57-62 “キリストは言う。神の国を言い広めなさい”
弟子を目指す3人の人達にイエス様は何が大切なのかを教えようとした。主の弟子となるとき、家族のことがネックになることが多い。主は家族を大切することを教えていたが、3人には主の弟子となるために家族よりも優先すべきことを語る。その教えには常識外れの過激なところもあるが、それは弟子として整えるためである。1人目は「あなたがどこに行かれても、私はついて行きます」と主に従う決意を表明した。彼は「どこに行かれても」と行く場所の限定を取り除いて主の弟子になる覚悟が出来ていた。だが、イエス様は「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません」と語る。「枕するところもない」伝道旅行が続いて家族の安らぎを失うことがあり得るが乗り越えるべきだと教えた。これは私達1人暮らしで経験する普通のことだが、続いて語ることは常識外れだ。
2人目に主が「わたしに従って来なさい」と声をかけると、彼は「まず行って父を葬ることをお許しください」と答えた。身内の葬りは家族として最も大切なこと。ユダヤ教ではそれはすべての宗教上の義務よりも大事なことであり、日本でも身内の葬儀のためには仕事を休む。だが、主は「死人たちに彼ら自身の死人たちを葬らせなさい」と語る。15章の放蕩息子のたとえ話で帰った息子に父が言った「この息子は、死んでいたのが生き返り」は神から離れた霊的な死を表すが、この箇所の「死人」も霊的な死だ。霊的に死んでいた人の死の始末は霊的に死んでいる人達に任せよ、あなたは霊的に死んでいる人達を生き返らせるために神の国を言い広めよと主は語る。主の言われたことは一見過激だが、葬儀の話題が出たのでその話題を用いて神の国の大切さを教えようとした。葬儀を否定するつもりはない。
3人目は「主よ、あなたに従います。ただ、まず自分の家の者たちに、別れを告げることをお許しください」主に従うことは家族から離れることだと分かるからこそ、キチンとお別れをしたいと思い、その許可を主に求めた。主の働きのために家族に別れを告げることはごく普通であり、旧約聖書の預言者エリヤも後継者のエリシャに両親の別れを告げることを許した。だから彼はイエス様も許してくれると思ったが、予想に反して主は「鋤に手をかけてから後ろを見る者は、だれも神の国にふさわしくありません」と語る。「鋤に手をかけて」は神の国の仕事をまさに始めようとする時、「うしろを見る」とはわき見や後ろを見たりでは上手く鋤を使うことができない「ふさわしくない」とは神の国の仕事をするために役に立たないこと。家族に別れを告げることは常識だからこの時の主は一見非常識に見える。だが、この時、家族に別れを告げる話題が出て来たので、主は“この機会にその話題を用いて神の国を言い広めることの大切さを教えようとした。家族は大切だからこそ、そんな家族より神の国を言い広めることは優先すべきだと言うことでその大切さを教えたのである。
マルコ10章「まことに、あなたがたに言います。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者は、今この世で、迫害とともに、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑を百倍受け、来るべき世で永遠のいのちを受けます」このみことばも過激なことを言っている。でも、過激なことばの後には素晴らしい祝福があることに目を留めよう。
