礼拝説教の要旨・2026年5月31日・マルコ2:17
“医者を必要とするのは、だれか?”
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です」なぜイエス様はそんな当たり前のことを言うのか?それは、その後の「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです」と言うためだ。この世の常識では、正しい人が招かれ、罪人は排除される。しかしイエス様はあわれみ深いお方だから罪人を見捨てず、罪から解放して救おうとする。
「医者を必要とするのはーー病人」と言ったのは自分が罪人を救う医者だと知らせるためだ。神から見たら罪人とは罪という病気にかかっている患者だ。その場合の罪とは、何か悪いことをしたことではなくて人間のうちにある罪の性質だ。それはまず神から離れたことから始まり、自分の思いや欲望のままに生きる自己中心の性質だ。それがイエス様の言う罪だ。罪人とは、罪のゆえに魂の病気にかかっている人だ。
医者は患者を見捨てないで何とか努力して直そうとする。同じようにイエス様は罪人を決して見捨てることなく救ってくださる魂の医者だ。普通、医者は医学の知識や技術や薬などを用いて病気を直そうとするが、イエス様は人の病を負うことで人を救われる。「まことに彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った」イザヤ53:4 病とは罪である。
イエスキリストは人々の罪の身代わりとして十字架にかけられた。
では「罪人」とはだれのことか?罪人と言うと私たちは特別な人達を考えてしまうが、実は人間である以上、だれでも罪人だ。「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができない」ローマ3:23 人間の基準で見たら多くの人達は常識的な生活をしているが、神の基準で見たら、だれでも隠れた所に罪の性質がある。私たちは自分のうちにある罪の性質を表に出さないために善良な人のように振舞い、うちにある罪の性質をもろに出してしまう人を、問題の人だとか犯罪人だと非難する。
けれども静かに考えると、“あの問題の人やあの犯罪人”にあるような罪の性質が自分にもあることに気づく。だから、もしあんな状況、あんな立場に置かれたら、自分も問題や過ちを犯したかもしれないと思うのではないか。人間である以上、だれでも罪の性質がある。そして自分のうちに罪の性質があることを率直に認める人が、イエス様が言う「罪人」だ。イエス様はそういう人を招いている。
一方「正しい人」とはだれのことか?医者は自分が病気だと認める人を治療して直すことができるが、病気なのに自分は病気ではないと言い張る人を直すことは出来ない。同じようにイエス様は、罪の性質があることを認めず“私は清廉潔白な者だ”と言い張る人を救うことは出来ない。イエス様はそういう人を「正しい人」と言う。だから「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くため」なのだ。
あなたは自分のうちにある罪の性質を頑固に認めない「正しい人」になるだろうか、それとも自分のうちにある罪の性質を率直に認める「罪人」になるだろうか。イエスキリストはすべての人にそのことを問いかけている。だれでもイエスキリストという医者が必要なことを知ってほしい。
