礼拝説教の要旨・2026年6月28日・へブル1:1-4
“キリスト教のはじまり”
ユダヤ教との連続性
主の復活後、弟子達はユダヤ教の神殿で主の復活を喜び、またペンテコステ後、最初の教会は神殿で礼拝をささげていた。その後、パウロは伝道旅行でよくユダヤ教の会堂で預言通りに来た救い主はイエスキリストだと語り、信じる人達とともに反発するユダヤ人も現れ、パウロは追い出され、命を狙われた。迫害されるなら会堂は止めて、別の集会を始めたらいいのにパウロは飽きもせず会堂に行き、救い主はイエスキリストだと語り続けた。へブル1:1-2を見ると、ユダヤ教は「御子にあって語られた」をまだ認めないが、「神は昔、預言者達によって、多くの部分に分け、多くの方法で先祖達に語られた」を認める。この両者に共通する部分がユダヤ教との連続性だ。
バプテスマ
だがキリスト教は、ユダヤ教にはない独自のものを早いうちから持った。洗礼と主の日の礼拝と聖餐式だ。これらはキリスト教が恵みの宗教であることを表す。まず洗礼(バプテスマ)とは何か?バプテスマはユダヤ教にもあるが、その意味が違う。洗礼者ヨハネは悔い改めのバプテスマを授けた。でも、私達のバプテスマはキリストを信じて新しく生まれたことを表す。私達はキリストを信じると、キリストが十字架で死んで葬られたように私達も霊的にキリストとともに死んで葬られ、またキリストがよみがえられたように、私達も霊的によみがえって新しい歩みを始める。これらは私達の努力ではなく神の恵みによって出来ることだ。
主の日の礼拝
私達はその恵みを覚えるために主の日の礼拝を守る。ユダヤ教は「安息日を覚えて、これはを聖なるものとせよ。6日間働いて7日目はいかなる仕事もしてはならない」を守るために安息日の仕事を厳格に避けた。その頑なな厳格さは守れない者への蔑視を見れば分かる。ローマ帝国でもユダヤ人は特権として“土曜の仕事を休む許可を国から受け、行いによる義を追求した。一方、キリスト者達は、主に命じられたのではないが、いつ頃からか主が復活した週の初めの日つまり日曜に礼拝し始めた。しかも、日曜は休みではなかったから彼らは仕事に行く前の早朝か、あるいは仕事が終わってから礼拝をささげた。忙しくても礼拝を通して主イエスに会いたいと思ったからだ。そのあり方は安息日律法を厳格に守って自分の義を認めてもらうユダヤ教とは根本的に違う。私達は信仰によってすでに義と認められているから自分を認め受け入れてくれる主イエスに会うためにワクワクしながら礼拝に来る。
聖餐式
私達が主イエスに会うためにワクワクしながら礼拝に集えるのはキリストの十字架の故である。それは神の私達に対する大きな愛と恵みだ。その愛と恵みはキリスト教独自の聖餐式に現れている。聖餐を通して私達はキリストの体が裂かれ、その血を流されたことを覚え、パンや杯を通して私達に与えられた神の愛や恵みを知る。罪ある私達のために神は愛する御子を私達の罪の贖いとされた。それによって私達は罪の赦しを受け、神の前に義と認められ、何の抵抗もなく主イエスに会える。忘れっぽい私達は聖餐を通してそのことを確認し続ける。これがキリスト教のはじまりだ。初心に帰ってキリストとともに歩んでいこう。
