礼拝説教の要旨・2026年9月20日・ルカ10:25-37
“良いサマリア人”
ある律法の専門家が「何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるか」の質問でイエスを試みると、主は「律法には何と書いてあるか。あなたはどう読んでいるか」と問い返し、彼は「心を尽くして、――神、主を愛しなさい」と「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」とレビ記19章の戒めを答えた。主が「それを実行しなさい」と言うと、彼は「私の隣人とはだれか?」とさらに尋ねた。昔からユダヤ人にとって隣人は同じユダヤ人だけだったが、イエスの時代にはさらにそれが強調され、マタイ5章「あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め」と言うほど排外主義的な民族になっていた。だから彼は主が「隣人はユダヤ人」と答えるかどうかを試した。それに対して主は良いサマリア人のたとえ話をした。
強盗に襲われ、倒れていた人とはユダヤ人だ。祭司もレビ人も見て見ぬふりをして通り過ぎた。彼らは同胞のユダヤ人を助けるべきなのに助けなかった。なぜか?律法には死んだ人に触れたら汚れを受けるから死体に触れてはならないという規定があった。民数記19章を参照。祭司やレビ人は、死体に触れて汚れを受けると、職業柄、7日間仕事ができない。もし倒れている人が死んでいたら面倒なことになると考えて助けなかった。規則は忠実に守るべきだが、規則を忠実に守ろうとしたために大事な律法を疎かにしたのである。隣人を自分自身のように愛するために時には自分の利益を捨てることが必要になる。自分の不利益になっても助ける。それが隣人を自分自身のように愛することだ。次に1人のサマリア人が現れる。彼らはユダヤ人と同じ神を信じ、同じ律法を持っていたが、異民族との混血や良くない歴史的な出来事によってユダヤ人とは犬猿の仲になっていた。このサマリア人は祭司やレビ人のような聖職者ではなく一般人で律法を知っていても細かい規定はあまり気にしない人だ。
彼は倒れている人を見て“可哀そう”に思い、助けようと近寄り、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をした。宿屋に連れて行き、そこで介抱し、翌日、デナリ2枚を宿屋の主人に渡し、介抱をお願いした。彼は急に現れたその人のために自分の予定を変更し、出費して祭司やレビ人が守れなかった律法を守ることができた。
敵であるサマリア人がこのユダヤ人を隣人として助けたことは、ユダヤ人にはあり得ないことだが、あり得ないお話を聞くことによって、律法の専門家は“隣人を自分自身のように愛する”とは何なのかを理解できた。主が「この3人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか」と尋ねると、彼は「その人にあわれみ深き行いをした人です」と答え、同胞だけを隣人とする自分達の偏狭さの問題に気づいた。物事は自分の問題に気づくことから始まる。自分のかかえる問題に何も気づかなければ、何も変わらず何も良くならない。だから彼が自分たちユダヤ人の問題に気づいたのは貴重なことだ。だが、主は彼がユダヤ人の問題に気づいたことだけで終わらせないで、さらにチャレンジを与えた。「あなたも行って同じようにしなさい」でも、その後は何も書いてない。彼がゴロッと変わったとは考えにくいが、隣人を自分自身のように愛する課題が与えられた。課題が与えられたことは幸いなことだ。なぜなら、そこに神の期待があるからだ。
